それでも定子に皇子を産んでほしかった
そんな一条天皇には、まだ皇子がいなかった。このまま後継ぎが生まれなければ、自分の皇統は途絶えてしまうかもしれない。そのとき、だれに皇子を産ませるか。その対象はやはり定子だった。すでに皇女を産んでいるという実績も、関係したかもしない。
宮中の「職の御曹司」に移って、貴族たちの猛反発を買った定子は、その後、その場に留め置かれたままだったようだが、長保元年(999)正月、一条天皇は定子を内裏に呼び戻している。
むろん道長は、定子が皇子を産んで中関白家が復活することを恐れただろう。だからなのか、道長の日記『御堂関白記』は、この年の正月分が欠けている。また、そんな道長に遠慮してか、藤原実資の『小右記』も行成の『権記』も、この月の分は残っていない。
だが、この時なのか、その翌月なのか、定子は懐妊し、同じ年の11月7日、定子は待望の第一皇子である敦康親王を出産した。
しかし、一条天皇の寵愛を受けたことは、はたして定子の幸福につながっただろうか。
愛されれば愛されるほど疎まれた人生
この年の6月7日、内裏が全焼したときには、定子が火災の原因だという噂が流れた。8月7日、出産のために転居する際は、同じ日に道長が宇治への遊覧を企画して公卿たちを誘い、彼らを定子のもとに行かせないという、露骨な嫌がらせを受けている。
また、出産したその日は、道長が11月1日に入内させた彰子に女御の称号があたえられた、まさに同じ日だった。
倉本一宏氏は「後見のいない、しかも出家している定子から皇子が生まれでもしたら、道長と定子の関係、また道長とその皇子との関係、さらには道長と一条天皇の関係がうまくいくとは思えず、政権、ひいては公卿社会が不安定になるという事態は、大方の貴族層にとっては望ましいことではなかったのである」と記す(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。
「望ましいことではなかった」ことは現実となった。藤原行成の『権記』によれば、一条天皇ばかりは大よろこびだったというが、定子への風当たりが弱まることはなかった。
そして、定子は相変わらず一条天皇の寵愛を一身に受け続けている証として、長保2年(1000)12月16日、次女の媄子内親王を出産するが、後産が下りず、24歳の若さでこの世を去った。たしかに愛されたが、その愛がゆえに不幸を背負った人生でもあった。