定子の兄・伊周は出世レースから勝手に脱落していった
一条天皇の妃であった藤原定子と藤原彰子。定子は関白・道隆の長女で、彰子は道隆の弟・道長の第一子。従兄妹同士でもあるふたりですが、それぞれ入内した後は顔を合わせることはなかったでしょう。しかし、「事実は小説より奇なり」と言いますが、まさにこのふたりの妃の運命は、絵巻の物語のようにドラマティックに交錯しました。
大河ドラマ『光る君へ』(NHK)で描かれたように、道隆亡き後、内大臣であった定子の兄・伊周と弟の隆家が「長徳の変」で花山上皇の袖を射ぬき、また、国母である詮子を呪詛したことなどで流罪となります。その騒動の途中で、定子は兄弟を救うためか自身で髪の毛を少し切り、一条天皇の寛大な措置を求めたわけですが、それはかないませんでした。
伊周という人は、当時の史料を読んでも、本当に人望がなく、父の道隆に引き上げられ、実力もないのに高い地位についてしまった若者という実像が浮かんできます。大臣になっても政治理念というものがなく、朝廷の儀式についても知識が足りない。そのくせ藤原北家の嫡男という家柄を鼻にかけている。「長徳の変」のようなスキャンダルを起こしても、周囲からは自業自得と思われたかもしれません。出世のライバルである道長からすれば、伊周は勝手に自滅していったという感覚だったでしょう。
定子が第一子を産んだのは髪を切って出家したとされた後
当時の後宮は、後見人がいるかどうかが全て。その時点で定子は中宮という第一夫人の座にいながら兄という後ろ盾を失い、参内もできなくなるわけですが、一条天皇の寵愛は変わりませんでした。「出家後のくせに」と非難されながらも、定子は長徳の変と同じ年(996年)の12月に、一条天皇の第一子・脩子内親王を産んでいます。
やがて伊周は恩赦で許されて帰京しますが、政治的な力は失ったまま。長保元年(999年)になると、一条天皇は定子を内裏に呼び戻し、定子は2人目の子を妊娠します。このことでも分かるように、一条天皇との夫婦仲は本当に良かったのですが、この年、道長は12歳になった長女・彰子を入内させる準備を着々と進めていました。身重の定子が8月に出産のため内裏を出て、前但馬守・平生昌の屋敷に移ると、11月にはいよいよ彰子が内裏に上がって、天皇との初夜を迎えました。