最強軍団・島津氏を撃退したフランキ砲
ところで、天正14年(1586)、宗麟が秀吉と謁見したのちに府内は島津家久の侵攻を受けた。フロイスの『日本史』によれば、町は焼き討ちに遭って壊滅したという。実際、大友館周辺から出土した陶磁器類には炎熱の痕跡が認められている。
一方、宗麟が籠城した丹生島城は、海に囲まれているため、さすがの島津勢も攻めあぐねたようだ。城も城下町も大きな被害を受けたものの、フランキ砲からの砲撃も加え、島津勢からなんとか守りとおした。
しかし、宗麟の病没直前、夫人や子供と一緒に洗礼を受けた嫡男の義統は、直後に秀吉が伴天連追放令を出すと棄教。その後、朝鮮出兵の際、味方を捨てて逃げたことが秀吉の逆鱗に触れて改易されている。むろん、府内や臼杵から、和洋折衷の佇まいは急速に失われていった。
宗麟はキリスト教の影響を大きく受けながら、蹴鞠、能、犬追物、鷹狩り、絵画、茶道など、日本伝統の諸芸に通じた趣味人だった。その和洋折衷がのちの時代に継承されていたら――。どうしても、そんなことを夢想してしまう。