1868年8月から9月にかけて、新政府軍と旧幕府軍の間で会津戦争が起こった。歴史評論家の香原斗志さんは「新政府軍による猛攻に会津若松城は耐えた。だがその戦いの後、明治政府によって城は徹底的に破壊されてしまった」という――。
新緑と若松城址・鶴ヶ城天守閣
写真=時事通信フォト
2019年5月、新緑と若松城址・鶴ヶ城天守閣(福島県会津若松市)

新政府軍の見せしめになった会津若松城の運命

明治維新を迎えた時点で、日本には193の城が存在していた。純然たる城のほかに、城持ちでない3万石以下の大名の藩庁が置かれた陣屋や、同様に城に準じていた要害を加えると、事実上の城の数は300を超えていた。

それらにとって決定的なダメージになったのが、明治6年(1873)1月14日、明治政府が出した「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」、いわゆる「廃城令」だった。

明治4年(1871)に廃藩置県が断行されると、城を本拠とする藩という組織が消滅したうえ、旧藩主は華族となって東京への移住を義務づけられ、城はすさむしかなくなっていた。

そこに出された「廃城令」によって、全国の城は、軍隊の基地として利用可能なものと、不要なものに二分された。より具体的には、陸軍の財産として残す「存城」と、普通財産として大蔵省に処分させる「廃城」に分けて、両省に通達したのである。

以後、「廃城」になった城の建造物は次々と払い下げられ、それを受けて取り壊されていった。また、「存城」とされても、あくまでも軍隊の基地として活用するために残すにすぎず、軍が駐屯するのに邪魔な建造物などは、どんどん取り壊された。

だが、こうした決定を受ける前に破壊されてしまった城もあった。すなわち、戊辰戦争に際して、新政府軍がいくつもの城を破壊したのである。なかでも見せしめになったのが会津若松城(福島県会津若松市)だった。