保存運動もまったく相手にされなかった

ただし、城こそ落城しなかったものの、会津藩は板垣退助による降伏勧告を受諾し、新政府軍に降伏した。

こうして、会津若松城は明治元年9月22日に開城し、すぐに新政府軍に引き渡され、兵部省の所管となって仙台鎮台の管理下に置かれた。また、明治政府は会津藩のすべての領地を没収して直轄地とし、翌明治2年(1869)には、廃藩置県に先立って若松県が設置されている。

若松県庁には本丸御殿の表向の建物が当てられた。このため、若松県が会津若松城の管理をすることになったのだが、残念なことに、城は新政府軍に抵抗したことへの見せしめとして扱われる運命にあった。明治2年秋には早速、県庁が置かれた本丸御殿表向以外の建物の解体がはじまっている。

そして、明治7年(1874)までには、県庁として使われていた旧御殿をふくめ、すべての建物が解体されてしまった。旧藩士たちが保存を求めて運動しても、まったく受け入れられなかったのである。

奇跡的に残った往時を偲ばせる建物

ちなみに、会津若松城は前述した明治6年のいわゆる「廃城令」では、「存城」となっている。にもかかわらず、若松県の権令だった沢簡徳は、明治政府に城郭建造物の取り壊しを建言している。

澤簡徳(1830~1903)
沢簡徳(1830~1903)(写真=東京市日本橋区役所『新修日本橋区史』下巻、1937年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

それを受けて明治7年(1874)1月、陸軍省は仙台鎮台に、旧若松城内は陸軍の営所を建築する場所だという理由で、「石垣や立樹等を除き旧来の建物で必要無いものは取り壊し払下げすべく」という内容を通達している。

もちろん、「陸軍の営所」云々というのは方便である。会津若松城は、旧会津藩士の精神的支柱だった。裏返せば、明治政府にとっては、反新政府の象徴だったことになる。そこに建造物を残しておくことで、旧幕府方の人々がふたたび結集したり、士族の反乱につながったりすることを、彼らは強く恐れた。だから取り壊す以外の選択肢を認めず、破壊を急いだのである。

それでもひとつだけ、かつて会津若松城に建っていた建造物が残っている。沢簡徳の建言が出される以前の明治3年(1870)、本丸中奥に建っていた三重の楼閣状の建物「御三階」が、本丸御殿大書院の唐破風の表玄関と一緒に、会津若松市内の阿弥陀寺に移築されていた。この表玄関が御三階の玄関に転用され、両者が一体となって現存する。