戊辰戦争で徹底して破壊された幕府方の城

徳川四天王のひとり、本多忠勝が築いた桑名城(三重県桑名市)も、新政府軍の餌食になった。

慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで敗戦後、桑名藩主の松平定敬(会津藩主松平容保の実弟)は、将軍徳川慶喜らとともに江戸に逃亡した。その後、桑名城は無血開城したが、新政府軍は開城の証として、三重の辰巳櫓を焼き払った。この櫓は元禄14年(1701)に天守が消失後、その代用とされてきた桑名城のシンボルだった。

同年4月には、宇都宮城(栃木県宇都宮市)が、新政府軍と幕府軍による宇都宮戦争の舞台となり、二度の攻城戦をへて、城内も城下の町々もほとんどが焼失してしまった。

東北地方を中心に、新政府に同意できない諸藩が結成した奥羽越列藩同盟側の城は、とくに大きな被害を受けた。長岡城(新潟県長岡市)は、藩主である牧野家の家臣、河井継之助が率いる藩兵が、慶応4年(1868)5月から7月にかけて戦った北越戦争に際し、ほぼ全域が焼失した。その後、城地は市街地になり、いまは城の名残すらない。

また、白河小峰城(福島県白河市)は同年閏4月から7月にかけ、白河口の戦いの舞台になった。このため、天守の代用とされていた三階御櫓をはじめ、大半の建造物が焼失している。同年7月の二本松の戦いで落城した二本松城(福島県二本松市)も、攻城戦の際にほとんどの建造物が失われてしまった。

新政府軍の攻撃に耐えた会津城

周知のとおり、戊辰戦争最大の激戦になったのは、同年8月から9月にかけて繰り広げられた会津戦争だった。会津勢は会津若松城に立てこもり、包囲した新政府軍から1カ月にわたって砲撃を受けた。

新政府軍は城の東側から、天守を目標に砲弾を放ち続けた。このため、会津戦争終了後に撮られた五重五階の天守の写真を見ると、3階と4階を中心に大きく損傷している。とはいえ、建物が焼失することはなく、天守にしても基本構造が大きなダメージを受けたわけではなかった。そして城は攻防戦に耐え、落城することもなかった。

損傷した会津戦争後の若松城。1868年撮影。
損傷した会津戦争後の若松城。1868年撮影。(写真=『会津戊辰戦史』1933年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

会津若松城は会津盆地の東南端部の、周囲よりやや高い独立丘陵上に位置している。丘陵の西端に広い本丸を置き、東側に二の丸、さらに東側に三の丸が、水堀を隔てて配置されている。また、本丸の北側に北出丸、西側に西出丸が配され、それぞれ水堀に囲まれ、本丸と土橋で結ばれていた。

そして、本丸は中央に天守が建つほか、塁上には7棟の二重櫓が配されていた。また、東北の城にしては珍しく、本丸のほか北出丸や西出丸も石垣で固められていた。

西国にくらべると築城技術が遅れていた東北の城だが、蒲生氏郷や加藤嘉明ら築城法に精通する武将が整備したため、極めつきの堅城に仕上がっていた。だから、新政府軍に1カ月も包囲されながら、最後まで持ちこたえたのである。