鉄筋コンクリート造でも往時の姿に
明治政府からそういう扱いを受けただけに、天守再建は会津の人々の悲願だったという。昭和32年(1967)の戊辰戦争90周年記念祭で、天守再建の決議文が読み上げられてから再建熱が一気に高まり、同39年(1964)に鶴ヶ城天守閣再建期成同盟が結成された。
幸いにも、明治初年に撮られた比較的鮮明な古写真が複数残っていた。文献史料等も参考にしながら、東京工業大学教授で、熊本城や和歌山城などの外観復元も手がけた藤岡通夫氏が外観復元天守を設計し、同40年に竣工した。鉄筋コンクリート造だが、古写真と比較しても外観はかなり正確に再現されている。
平成23年(2011)には大きな改修が加えられた。屋根瓦がすべて赤瓦に葺き替えられたのである。
会津若松城の建造物も、当初は一般的ないぶし瓦が葺かれていたようだが、寒冷地のため、上薬が塗られていないいぶし瓦は、雪が解けるときに水が染み込み、その水分が凍って瓦が割れる。このため、寛永20年(1643)に入封した三代将軍徳川家光の弟の保科正之は、上薬を塗って水分を吸収しにくくした赤瓦を使うことにしたのだ。
その瓦までが再現され、いま会津若松城天守は外から眺めるかぎり、新政府軍が取り囲む以前の姿を取り戻している。