※本稿は、今村翔吾『戦国武将を推理する』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。
とにかく謎だらけの秀吉の青年期
庶民から天下人まで上り詰めた豊臣秀吉ほど、「立身出世」という言葉が似合う人物はいません。同じ三英傑でも織田信長や徳川家康は大名出身ですし、幕末の英雄でも西郷隆盛や坂本龍馬はいちおう武士階級ですから、秀吉がナンバー1の「成り上がり」でしょう。
信長は行動と決断がダイナミックですが、秀吉は出自からの立身出世のプロセスがドラマチックです。『五葉のまつり』など、私の小説でも秀吉は多く出てきます。信長や家康と比べて武将との関わりのバリエーションが多く、さまざまな登場場面があります。
秀吉の生年月日は天文5年(1536)1月1日とされていましたが、これは『絵本太閤記』による創作です。「天下人なんやから、1月1日生まれにしたほうが箔がつくやろ」という狙いで、正月生まれに“設定”されたのではないでしょうか。伊藤秀盛という家臣が飛騨国の石徹白の白山中居神社に奉納した願文の記述などから、現在は天文6年(1537)2月6日生まれ説が有力視されています。
生年月日もそうですが、若い頃の秀吉はとにかく謎だらけです。小説家としては、出自が曖昧なぶん幼少期のエピソードを自由に描ける面白みがありますが、生年をどこに設定するかで人物のイメージも変わるので、そこは悩みどころです。とはいえ、秀吉はキャラクターとして描きがいがあるので、自分の小説の中では一番好きな人物です。
百姓であったのはほぼ確実
秀吉に関するエピソードとしてほぼ確かなのは、彼が尾張国中村の百姓の家に生まれたということです。秀吉の母なか(大政所)、姉、弟の秀長(小一郎)といった証言者がたくさんいるので、これは間違いないでしょう。ただし、ひと口に百姓といっても、現代の私たちが抱いている百姓像とは少し違っていたのではないでしょうか。
この時代、兵農が完全に分離されていなかったため、足軽雑兵は百姓と足軽の二刀流で生きる人が多数を占めていました。戦いの後には食料や金品、時には人までを掠奪する「乱取り(乱妨取り)」が行われ、それを目的として合戦に参加する人もいました。
秀吉の父といわれる弥右衛門も、江戸時代初期に成立した『太閤素性記』では足軽と伝えられています。
なかには、秀吉の出自を「山の民」に求める小説家の方もいます。私は、秀吉は百姓と下級武士の間、今風にいえば「季節労働者としての契約社員の息子」くらいの感じだったと考えています。結局どれが正解なのかわからないので、いかようにも描けるのが、秀吉の幼少期です。