スゴ腕の営業マン
五奉行として豊臣政権を支えた前田玄以は、若い頃は尾張国の小松原寺で住職を務めていたといわれています。まだ「木下藤吉郎」と名乗っていた頃の秀吉と親しい間柄で、ある日、秀吉は「今は乱世なので、運に恵まれれば儂のような者でも大名か将軍になれるかもしれない。それが実現したら、貴殿の望みを何でも叶えて差し上げよう」と玄以にいいました。
玄以は笑いながら「それならば、京都所司代にしてください」と答え、のちに実現するわけですが、秀吉が武将にすらなっていない頃の話ですから、あくまで逸話の一つという位置付けではあります。
また、秀吉が鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚え、寺小姓だった石田三成から茶を差し出されたという有名な三献の茶のエピソードもあります。こうした玄以や三成の逸話からわかるのは、秀吉がさまざまな場所を巡り、人と会っていたということです。
ひと昔前の営業担当は、よく歩き、多くの人に会う人が優秀とされていましたが、秀吉はさながらスゴ腕の営業担当という感じだったのでしょう。
まずは尾張国内を巡り、地理はどうなっているのか、優秀な人間はいないかなど常に探っていました。そして、歩きながら色々と思考をめぐらせ、考え続けたのではないでしょうか。
誰から教えを受けたのか
秀吉は若い頃に中村の家を出ているので、秀長は兄との共通の体験がそこまで多くはなかったと思われます。しかし、外で鍛えられて成長した兄の姿を見て、秀長も大いに刺激を受けたはずです。自分が励まないわけにはいかないので、兄弟で教え合って、それぞれ武将としての素養を身につけていったのでしょう。
気になるのは、秀吉や秀長が誰から教えを受けたのかという点です。例えば、家康や今川義元は太原雪斎、上杉謙信は天室光育、伊達政宗は虎哉宗乙など、後世に名を残した戦国武将は、いずれも当代随一の学識がある人物から教えを受けています。
小瀬甫庵の『太閤記』では、8歳のときに光明寺に入れられ、寺を追い出されてからは商家に奉公に出て、ひと通りの手習いは習得していることになっています。
大名の子息は教育を強制的に受けさせられましたが、秀吉は自ら学び、吸収していったと思われます。おそらく他のどんな武将よりも「学ぶ喜び」は大きくて、学びに対する渇望も強かったはずです。文字も最初は書けなかったけれど、努力して書けるようになって、それがうれしくて筆まめになったのかもしれません。
信長や家康も多くの手紙を書いていますが、秀吉は自筆書状が130通ほど残っています。「その書は達筆と言えるようなものではなく、誤字脱字や破格の書き方も見られますが、大変個性的」(東京国立博物館・田良島哲、特別展「和様の書」)と評されているように、私は秀吉の力強い字(筆跡)が好きです。