最初に仕えたのは今川方の武将

若い頃の秀吉のエピソードはいくつもありますが、史料にその名が出てくるのは永禄8年(1565)のこと。調略によって寝返らせた松倉城主の坪内利定宛の知行安堵状に、「木下藤吉郎秀吉」の名が出てきます。この頃には、すでに織田方の一員として活躍していたとみられます。

逆にいえば、そこに至るまで秀吉の経歴は本当に謎だらけです。通説として語られているのは、父・弥右衛門の死後、母なかが再婚した養父・竹阿弥との仲が悪く、家を出て諸国を放浪したというものです。針売りをしていたとか、どじょうすくいだったとか、家譜や歴史書によって描かれていることがバラバラです。

その中で、今川氏の重臣・飯尾氏の配下で遠江国頭陀寺ずだじ城の城主だった松下之綱ゆきつなに仕えたというエピソードが、『太閤素性記』に記されています。今川氏の滅亡後、之綱は徳川家康に仕えますが、天正11年(1583)に秀吉から3000石を与えられています。

その後、遠江国久野に1万6000石という所領を授かったことから、秀吉が之綱に仕えたのは事実と思われます。秀吉が九州攻めの際に記した文書には、「松下加兵衛(之綱)の事、先年御牢人の時、御忠節の仁に候そうろう」とあります。

今村翔吾さん
撮影=小松士郎
今村翔吾さんは「秀吉が現代に生まれていたら、きっと社長や総理大臣までのし上がったのでは」と考える

1万6000石は口止め料

しかし、旧主である松下之綱の石高が1万6000石にとどまったのは、之綱の秀吉に対する扱いがそこそこだったからではないかと思います。仮に之綱が秀吉の立身出世の手助けをしていたら、もっと多くの領地が与えられていたはずです。ひどい扱いはされていないけれど、良くされたわけでもない――そのため、おそらくこのような石高になったのではないでしょうか。

一方で、秀吉が之綱に与えた1万6000石には、「口止め料」の意味合いがあったという見方もできます。松下時代の秀吉は本当に下の下という感じで、雑多な仕事をしていたと思います。

天下人となった今、そんな下積み時代のエピソードを暴露されたら威信に傷がつくので、本来なら大名になるはずがない之綱を取り立てたのかもしれません。

ちなみに、之綱が亡くなったあと、後を継いだ子の重綱は関ヶ原の戦いであっさりと東軍についています。物語では深い絆が描かれがちな秀吉と之綱ですが、実際は割とドライな間柄だったのでしょう。