接収費用はたった10万円

4月14日、脇坂淡路守が龍野に到着。4日後の18日、出発の用意が調うと、午前9時に脇坂淡路守の本隊が龍野を発ち、12時間後の午後9時に赤穂に到着している。このとき従事した人数は4545人。さながら出陣だった。

そして、翌19日午前6時から赤穂城の「受城」が開始され、正午には書類などの手続きが完了。20日午後4時半ごろ、在番要因284人を赤穂に残して、脇坂淡路守は赤穂を発っている。

これだけの手間をかけて「嫌な」仕事をした龍野藩に、幕府から「受城」の費用として支給されたのは、4貫215匁7分厘。いまの貨幣価値で10万円くらいだろうか。「やっていられぬ」という悲鳴が聞こえそうだが、逆らえば龍野藩がお咎めを受けるから、やるしかなかった。

むろん、ここで終わったわけではない。まだ次の城主が決まっていないから、「在番」として、屋敷改帳などの記録と現況を突き合わせながら、城の維持管理に務めなければならなかった。その役割からやっと解放されたのは、それから1年半をへた翌元禄15年(1702)11月4日。下野(栃木県)の烏山城(那須烏山市)の城主だった永井直敬が、赤穂に移封になったときだった。

民家を立ち退かせて整備を進めた

そんな赤穂城は、かつては海に突き出した海城だったが、いまでは周囲が埋め立てられて海は遠くなっている。それは残念だが、現在、赤穂城を訪れると、前述した甲州流軍学にもとづいて縄張りされた城郭を堪能できる。保存状態がよいから、というよりも、徹底的な整備の賜物である。

戦前に空撮された赤穂城址の写真を見ると、水堀はすっかり埋められている。昭和40年代ごろから、本丸周囲の堀が一部復元されるなどしたのち、昭和56年(1981)、本丸にあった兵庫県立赤穂高校が移転すると、整備に弾みがついた。

1930年代の赤穂城
城というより学校の方が目立つ1930年代の赤穂城(写真=朝日新聞社「新日本大観附満州国 レンズを透して見たニッポンのガイドブック」より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

以後、本丸には庭園が復元され、御殿の跡も間取りがわかるように平面整備された。石垣や土塁も修復および復元され、建造物も平成8年(1996)に本丸門、同13年(2001)に厩口門が復元された。

本丸の周囲を囲む多角形の二の丸も、民家をすべて立ち退かせたうえで、三の丸とのあいだに堀が復元され、広大な庭園もすっかり復元された。石垣のほか土塀や門の復元は、二の丸でも進んでいる。

二の丸の北側2方向に被さるように配置された三の丸は、すでに昭和30年(1955)に大手門の高麗門や大手東北隅櫓が、明治初年に撮られた古写真をもとに再建されていたが、平成14年(2002)には、明治時代に破壊された大手門の枡形が整備、復元された。大石内蔵助邸や近藤源人邸の長屋門も解体修理された。

赤穂城
平成8年に木造の伝統工法で復元された赤穂城の本丸門。(写真=663highland/CC-BY-2.5/Wikimedia Commons

三の丸も、この2棟と大石神社の社殿等を残し、ほかの建造物はすべて撤去され、いまも整備が進められている。