2026年NHK大河ドラマの主人公となる豊臣秀長は、政務や軍事面で兄・秀吉を補佐した。文教大学教育学部教授の中村修也さんは「記録上、秀長が武将として最初に登場するのは、信長が率いた長島一向一揆との戦いだ。ここでは秀吉とは別行動をとり、大きな戦果を上げている」という――。

※本稿は、菅義偉・柴裕之・中村修也・藤田達生・黒田基樹・萩原さちこ『豊臣秀長 戦国最強のナンバー2のすべて』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。

錦絵『太平記長嶋合戦
写真=Wikimedia Commons
錦絵『太平記長嶋合戦』(画=歌川芳員/PD-Japan/Wikimedia Commons

信長も手を焼いた伊勢長島一揆

織田信長は、天正2年段階において、北は旧朝倉家臣団の反抗にあい、東は武田勝頼の活動が活発化し、南では長島の一向一揆の存在があった。長島は、木曽川・長良川・揖斐川が合流した地域で、「河内」と称されていた。そのうちの最も大きな中州が長島で、そこの願証寺は美濃・尾張・伊勢の真宗門徒を統括する司令塔的存在であった。

信長の長島攻略は、永禄10年(1567)、元亀2年(1571)、天正元年(1573)とすでに3度行なわれていた。2度目の元亀2年には家臣・氏家直元を戦死させ、3度目の天正元年にはやはり家臣の林新二郎を失っている。

また、元亀元年には小木江砦に置いた弟の信興が一揆勢に攻められ、切腹するという事態まで起こっていた。そして4度目の天正2年7月に信長は決戦を仕掛けたのである。

「念仏者失格だから制裁する」

秀長の武将としての最初の記録は、次の『信長公記』巻七の天正2年7月13日の記事である。

七月十三日、河内長嶋御成敗として信長御父子御馬を出され、其日津嶋に御陣取。抑尾張国河内長嶋かはうちながしまと申すは隠れなき節所せっしょなり。(中略)隣国の佞人ねいじん凶徒きょうと等相集り住宅し、当寺崇敬す。本願寺念仏修行の道理をば本とせず、学文無智の故栄花に誇り、朝夕乱舞らんぶに日を暮し、俗儀ぞくぎを構へ、数ケ所端城はじゃうを拵へ、国方の儀を蔑如べつぢょ持扱もてあつかひ法度はっとを背き、御国にて御折檻せっかんの輩をも能き隠家と抱き置き、御領地方押領ごりょうちほうおうりょう致すに依って、(中略)信長天下の儀仰付けらるゝに依つて御手透てすき御座なく、御成敗御延引なされ、今度は諸口しょくちより取詰め、急度御退治きゅうどごたいじなさるべきの御存分にて、(後略)

とある。この長島一揆殲滅作戦については、以前は信長の残忍さを示すものと考えられていたが、神田千里氏の研究によって、見直しがなされた。

長島一揆勢は「本願寺念仏修行の道理をば本とせず」「俗儀を構へ」た念仏者失格であり、門徒失格だから制裁するというのが信長の立場であると神田氏は述べる。

そしてこの論理は「俗的な世界とのかかわりを自粛する教団を構想した蓮如」の考えと一致し、信長は「『本願寺念仏修行の道理』にもとると宣告して長島一揆を皆殺しにする」ことになると述べる。