平安時代の貴族たちの暮らしぶりはどんなものだったのか。神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員の繁田信一さんは「和歌を詠み、文学を好む貴族のイメージは間違っている。平安時代は、殺人や横領に手を染めた貴族が幸せに暮らす『悪徳に満ちた世界』だった」という――。

※本稿は、繁田信一『わるい平安貴族』(PHP文庫)の一部を抜粋したものです。

京都御所の本殿
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清少納言の実兄、白昼の平安京で射殺される

清少納言といえば、王朝時代の宮廷を彩った数多の才媛たちを代表する存在の一人であるが、その清少納言の兄弟の一人が騎馬武者の一団の襲撃を受けて生命を落としたという事実は、どれほど広く知られているだろうか。

かの御堂関白藤原道長の日記である『御堂関白記』によると、寛仁元年(一〇一七)の三月八日、数騎の騎馬武者たちが白昼の平安京を疾駆するということがあったらしい。

その後方には十数人の徒歩の随兵たちの姿も見られたが、この一団がまっしぐらに向かっていたのは、六角小路と富小路(福小路)とが交わる辺りに位置する一軒の家宅であったという。

そして、その家宅に住んでいたのが、清少納言の実兄の前大宰少監だざいのしょうげん清原致信むねのぶであった。

その致信の居宅において起きた出来事を藤原道長に伝えたのは、道長の息子の藤原頼宗よりむねであったが、その折の頼宗の言葉は、『御堂関白記』に次のように書き留められている。

行幸ぎょうこうがあった日の申時さるのとき頃のことです。六角小路と福小路との辺りの小さな家に住んでおりました清原致信という者は、藤原保昌やすまさ郎等ろうどうだったようですが、馬に乗った七人ないし八人の武士たちと十数人の徒歩の随兵たちとによって、その家宅を取り囲まれたうえで殺害されてしまいました」