道路が「碁盤の目」に広がる京都の街並みはいつ頃完成したのか。京都大学名誉教授の有賀健さんは「同じく碁盤の目状だった平安京時代からと誤解されがちだが、全く違う。今の街区を形成する主要道路が完成したのは大正から昭和にかけてだ」という――。

※本稿は、有賀健『京都 未完の産業都市のゆくえ』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

京都の清水寺の眺め
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古都の街並みは「空襲被害が少なかったから」ではない

決まり切った言説の一つに、「京都の中心部は太平洋戦争末期の空襲に遭わずに済んだから、江戸期から続く伝統的な家並みを維持できた」というものがある。

京都の空襲被害はゼロではなかったが、それでも他の大都市に比べれば軽微で、中心部には大きな空襲はなかった。空襲被害が東京や大阪のようであったらどうなったか、推測することは難しいので厳密には否定も肯定も難しいが、私は、たとえ空襲で焼け落ちたとしても、京都の中心部の町並みは、それを担う町衆が健在である限り、再生産されたと考える。

但し、戦後も町衆が健在であったのは、京都の空襲被害が軽微であったことと無縁ではないだろう。東京や大阪など戦後の主要都市のどこでも見られた闇市には、疎開と空襲被害で戦前の地域社会が崩壊し、土地を巡る権利関係もしばしば錯綜した時代背景がある。京都ではこのような地域社会の崩壊は起こらなかった。

京都の町並みの再生産が出来なくなったのはバブル崩壊後の1990年代以降であり、西陣(織)と室町(商人)が修復不可能なまでに傷み、廃業を余儀なくされたからである。

第二次大戦で壊滅した都市はどうなったか

太平洋戦争末期の空襲被害を含め、戦争や自然災害あるいは大火などによる影響を過大視してはならないと思う。Davis and Weinstein(2002)は日本の空襲被害の程度が戦後の日本の都道府県別人口分布にどのような影響を与えたかを調べた。彼らの統計分析によれば、戦後の人口成長は概して戦前からの分布の趨勢に従っており、空襲被害の程度は有意な影響を与えていないことが示される。

ポーランドのワルシャワやドイツのドレスデンは第二次大戦で徹底的に破壊され、中心部は文字通り灰燼に帰したが、町並みは復旧された。物的破壊の有無は文化財の保存には決定的に重要だが、町の姿に長期的な影響を与えるとは限らない。

確かに、清水寺や金閣寺(戦後放火により全焼した)が空襲で焼失していたら、それは大きな文化的損失となったであろうが、だからといって町並みが復旧しなかったとは言い切れないのではないか? それでも戦争や自然災害が分岐点になることはある。実際、戦後復興事業の一環として多くの都市で土地区画整理事業が計画された。その実現には長期の年月を要したが、町並みが戦前とは大きく変貌した都市も多い。