なぜ徳川家康は天下人になれたのか。歴史家の安藤優一郎さんは「ピンチをチャンスに変える名将だった。秀吉に三河などの旧領を奪われても、関東で家臣の統制や領国経営を強化して力を蓄えた」という。安藤さんの著書『徳川家康「関東国替え」の真実』(有隣堂)からお届けする――。
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(図版=大阪城天守閣/PD-Japan/Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(図版=大阪城天守閣/PD-Japan/Wikimedia Commons

関東転封を家康に命じた秀吉の狙い

北条氏の討伐に成功して関東を平定した秀吉は、すぐさま戦後処理に入る。その最大の眼目は約二百四十万石にもおよぶ北条氏旧領を誰に与えるのかということに尽きた。

先の四国征伐では降伏した長宗我部氏に土佐一国、九州征伐では降伏した島津氏に薩摩・大隈そして日向の一部を与えた。その領国の過半を没収したものの、改易の処分までは下さなかったが、北条氏の場合は違っていた。

長宗我部氏も島津氏も秀吉軍と戦火を交えたとはいえ、北条氏のように居城に籠城して最後の抵抗を試みてはいない。長宗我部氏の場合は本国の土佐、島津氏の場合も本国の薩摩に攻め込まれる前に降伏した点で決定的に異なる。その点の違いが処分を分けたのだろう。

秀吉は戦争責任者として北条氏政たち四名に切腹を命じ、氏直を高野山に追放した。後に御家再興は成るものの、この段階では改易の処分を下して領国を没収し、北条氏を御家断絶とした。この処置により、戦国大名の北条氏は滅亡する。

小田原開城前から、秀吉は北条氏旧領に封じる大名を決めていた。徳川家康その人だが、単なる加増ではない。家康の領国五カ国を取り上げた上での加増だった。

すなわち、国替えと俗称された転封てんぽうである。

秀吉は天下統一の過程で諸大名を対象とした国替えを断行しているが、家康の関東転封はまさにその象徴となる。家康はそれまで百万石ほどの身上であり、数字上は倍増以上のアップであった。

三河・遠江・駿河・甲斐・信濃は没収に…

家康には関東まで版図を広げる意思はなく、侵攻したこともなかった。本能寺の変の直後、武田氏旧領だった甲斐・信濃を手に入れようと北条氏と合戦に及ぶが、後に北条氏と同盟を結んだことで、上野については北条氏の領有を承認する。関東の雄・北条氏に対し、関東に食指を動かすつもりはないとの表明でもあった。

ところが、天正十四年(一五八六)十月に秀吉に臣従すると、家康は関東平定の役割を課せられる。北条氏に代表される関東の諸大名を豊臣政権に服属させるよう命じられたことで、北条領を狙っているのではと疑われてしまう。同十六年五月に、困惑した家康がそれを否定する起請文を北条氏に差し出した。

そんな家康の意思とは裏腹に、秀吉軍の先鋒せんぽうとして北条領に攻め込んだ家康は小田原攻めの過程で、関東転封を打診される。家康は秀吉からの打診を受諾するが、臣従した以上、それしか道はなかった。

秀吉からの国替えの命を拒絶すればどういう処分が待っていたかは、これから述べるとおりである。