「教育ママ」は昔からいたのか。歴史小説家の永井路子さんは「日本史で教育ママというと、豊臣秀吉の妻、淀君がいる。息子の秀頼を父親と同じ関白にしようと大事にしすぎた結果、一人で馬にも乗れない超肥満児のボンクラに育ててしまった」という――。

※本稿は、永井路子『歴史をさわがせた女たち 日本篇』(朝日文庫)の一部を再編集したものです。

伝 淀殿画像
伝 淀殿画像(図版=奈良県立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「教育ママ」は戦後生まれなのか

このところ、教育ママへの風当たりはめっきり強い。中には戦後の産んだ大罪の一つのようにいう人もある。だが、ほんとうに教育ママは戦後の悪現象なのだろうか。

まず、戦前の修身の教科書を思いだしてみよう。

孟母三遷もうぼさんせんの教え」

というのがあった。中国の大学者孟子は、子供のころ墓場の近くにすんでいたので、葬式のマネばかりして遊んでいた。これではいけないというので、孟子の母は市場の近くに引っ越した。すると孟少年は、こんどは「売った買った」と商売のマネばかりする。これも教育上よろしくない、というので学校の近くに移ったら、やっと勉強が好きになったというオハナシ。まさに越境入学そこのけの涙ぐましさではないか。

日本にもこわい教育ママがいた。中江藤樹という学者が、勉強のなかばで故郷へ帰って来ると、その母は雪が降るのにとうとう家に入れなかったという。新井白石の母も大変な賢夫人で、学問から囲碁将棋の手ほどきまでしてやった。

新井白石は水をかぶってまで勉強した

こう書けば反論もでるかもしれない。孟子や藤樹の学問は純粋な学問だが、今の教育ママは出世のための学問しか考えていない、と。

しかし、孟子の学問も出世のためでなかったとはいえない。貧しい家の子、孟子は、この学問のおかげで、弟子をひきつれ自家用車をつらねて諸国を遊説する大センセイになりおおせた。さしずめ今なら経営セミナーにとび歩く先生というところだろうか(その説くところがあまり実用的でなく、実際に役立たないあたりも、どうやらそっくりである)。

新井白石も学問のおかげで、浪人のむすこから、千石取せんごくどりの将軍の顧問格に出世した。チナミに彼が勉強中眠くなると冬でも水をかぶってがんばったのは、なんと九歳の時である。いくらなんでも現代は、九つの子が水あびをするほどキビシクはない。してみると、受験地獄の、つめこみ主義のというのは、少し騒ぎすぎではないだろうか。