おねねを即刻追い出したのは失策だった

というより、むしろ彼女は権謀オンチである。秀吉の死後間もなく、最大のライバルだったおねねを大坂城から追出してしまったなどは、政治家としては最大の失点であろう。おねねは、表向きには、秀頼の嫡母ということになっている。秀吉は一応彼女の顔を立てて、秀頼に「まんかかさま」と呼ばせていたくらいなのだ。

豊臣秀頼像〈(伝)花野光明画〉
豊臣秀頼像〈(伝)花野光明画〉(図版=東京藝術大学/PD-Japan/Wikimedia Commons

それがしゃくにさわったからこそ、お茶々はおねねを追出してしまったのだろうが、秀吉の死後、不安定な時期にこうしたやり方はすこぶるまずい。現代の歴代内閣だって、長持の秘訣ひけつは、最大のライバルを閣内に抱えこむことではないか。それを閣外に出してしまったらどういうことになるか。この際少しの不愉快はがまんして、北政所を立てておけば後であれほどみじめなことにはならなかったはずである。

しかし、彼女は、政治家であるより母でありすぎた。秀頼を独占したかったのだ。何ごとも秀頼第一――。しかもそのやり方が、すこしガメツすぎた。

――人はどうでもよい。わが子さえよければ、あとは知っちゃいない。

それが露骨すぎるあたり、なにが何でも一流校へとはりきる行きすぎママに似ている。

帝王学を教え込む育児法も大失敗

たしかにお茶々が秀頼に期待したのは、エリート中のエリートコースだった。有名幼稚園からナダ校、東大などというケチな夢ではない。日本でたった一人だけというエリートコースつまりパパ・ヒデヨシと同じ関白になることであった。それどころか、彼女はパパ以上のものをむすこに望んでいた。

「おとうさまは偉かったけど、ほんとうのこといってガクがおありにならなかったわ。あなたはそれじゃだめよ」

というわけで、秀頼にガクを要求する。与えたのは「樵談治要しょうだんちよう」といういわば帝王学の書。室町時代に、一条兼良かねらという学者が、将軍足利義政の夫人、日野富子にたのまれて、その子義尚のために書いた「お心得」である。このへんに目をつけるあたりは大したもので、今ならカントを原書で読め、と督励するようなものだろうか。

まさしく秀頼は彼女の夢だった。ガクあり権力あり――理想の男性になるべき掌中の玉だった。もっとも、あんまり大事にしすぎたので秀頼は超肥満児になってしまい、馬にも一人では乗れなかったという話もあるから彼女の育児法はどうもやぶにらみだったようだ。