平安時代は一夫多妻制で、男性は何人もの女性と結婚していた。右大将道綱の母が書いた「蜻蛉日記」には、夫の浮気に嫉妬する女性の気持ちが余すところなく描かれているという。歴史小説家・永井路子さんの著書『歴史をさわがせた女たち 日本篇』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
「藤原道綱の母」
「藤原道綱の母」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

謎に包まれた王朝三美人の一人

彼女の名前はわからない。

何年に生まれて何年に死んだかもわかっていない。言いつたえでは、王朝三美人の一人、ということになっているが、肖像画が残っているわけではない。

辛うじて、その子の名前をとって右大将道綱の母、とだけよばれている。はなはだ漠然とした存在だが、それでも、私たちが見すごすことができないのは、彼女が日本における「書きますわよマダム」の元祖であるからだ。

そしてそこには、恥も外聞もない、女の愛憎のすさまじさが、あますところなくえがかれているからである。

自分の私生活をバクロする――今でこそ珍しくもないことだが、それまで、そんなことをやった女性は一人もなかった。その意味で彼女は「勇気ある先駆者」といわなければなるまい。

時の権力者がいかにヒドイ男かを書きまくった

彼女の書いたのは、ある男性との二十余年の交渉のいきさつである。しかもこの男性というのが、藤原兼家という当時の最高権力者だ。今ならさしずめ総理大臣――いや、彼は現代の総理クラスのミミッチイ小物ではない。なかなか豪快な、スケールの大きい、一代の王者である。

――王者と私の二十年!

これならゼッタイにマスコミは飛びつく。が、残念ながら、当時は新聞も週刊誌もなかったから彼女はいくら書いても、一円の原稿料もはいりはしなかった。

にもかかわらず、彼女は書いた。書いて書いて書きまくった。

なぜか? 書かずにはいられなかったからだ。一代の王者として、もてはやされるその男が彼女にとって、いかにヒドイ男であったかを、どうしても書かずにはいられなかったのだ。彼女は「蜻蛉日記」とよばれるその作品のはじめに、こう書いている。

「世の中で読まれている物語にはウソばかり書いてある。ホントの人生はそんなものじゃない。私はホントのことを書くのだ」

だから、ここに登場する兼家は、きれいごとの王朝貴族ではない。図々しくて、不誠実で、浮気で……。その私行はあますところなくあばかれている。