謎に包まれた王朝三美人の一人
彼女の名前はわからない。
何年に生まれて何年に死んだかもわかっていない。言いつたえでは、王朝三美人の一人、ということになっているが、肖像画が残っているわけではない。
辛うじて、その子の名前をとって右大将道綱の母、とだけよばれている。はなはだ漠然とした存在だが、それでも、私たちが見すごすことができないのは、彼女が日本における「書きますわよマダム」の元祖であるからだ。
そしてそこには、恥も外聞もない、女の愛憎のすさまじさが、あますところなくえがかれているからである。
自分の私生活をバクロする――今でこそ珍しくもないことだが、それまで、そんなことをやった女性は一人もなかった。その意味で彼女は「勇気ある先駆者」といわなければなるまい。
時の権力者がいかにヒドイ男かを書きまくった
彼女の書いたのは、ある男性との二十余年の交渉のいきさつである。しかもこの男性というのが、藤原兼家という当時の最高権力者だ。今ならさしずめ総理大臣――いや、彼は現代の総理クラスのミミッチイ小物ではない。なかなか豪快な、スケールの大きい、一代の王者である。
――王者と私の二十年!
これならゼッタイにマスコミは飛びつく。が、残念ながら、当時は新聞も週刊誌もなかったから彼女はいくら書いても、一円の原稿料もはいりはしなかった。
にもかかわらず、彼女は書いた。書いて書いて書きまくった。
なぜか? 書かずにはいられなかったからだ。一代の王者として、もてはやされるその男が彼女にとって、いかにヒドイ男であったかを、どうしても書かずにはいられなかったのだ。彼女は「蜻蛉日記」とよばれるその作品のはじめに、こう書いている。
「世の中で読まれている物語にはウソばかり書いてある。ホントの人生はそんなものじゃない。私はホントのことを書くのだ」
だから、ここに登場する兼家は、きれいごとの王朝貴族ではない。図々しくて、不誠実で、浮気で……。その私行はあますところなくあばかれている。