女の屈折を余すところなく描いた「蜻蛉日記」

兼家の浮気のうわさ――それはとりもなおさず彼女の敗北を意味するのだ。美貌と才気、この二つをもってしても、彼をひきとめ得ない敗北感、それをひしひしと味わうのは、彼の車がしらんふりをして彼女の門前を通りすぎるときだ。「蜻蛉日記」には、このへんの女の心の屈折を描いて余すところがない。

その点、彼女の作家的な力量は大したものだけれども、私は人間としてはどうも彼女は好きになれない。あまりのプライドの高さとエゴイズムがカチンと来るのだ。

たとえば兼家の第一夫人、時姫に対する態度がそうだ。時姫に対しては彼女は嫉妬していないが、これはむしろ、時姫にわざと弱味をみせまいとする彼女一流のプライドのなせるわざかもしれない。

それかあらぬか、時姫の所へも兼家がよりつかなくなったと聞いて、ここぞとばかり同情の歌を送ったりするのだが、時姫だって、兼家が彼女に惚れはじめたころは、きっと嫉妬にさいなまれていたに違いないのだから、そこへ、同病相あわれむ歌を送るなどは、ある意味では意地悪でもある。時姫もそれを感づいていたとみえ、このときは、

「大きなお世話よ」

と、しっぺがえしをくわせている。

北条政子の嫉妬は陽性だが、道綱の母は…

どういうものか私は「蜻蛉日記」を読んでいると、だんだん兼家が気の毒になってくる(少し男に甘いのだろうか)。いいわけを言ったり、ごきげんをとったり、汗だくの奮戦だ。あるときはすねて山ごもりしてしまった彼女に手をやいて、とうとうその寺にのりこんで、あたりのものをばたばた片づけ、引っさらうようにして家に連れ帰る。

――全く手のやける女だ。

内心そう思いながら、陽気に冗談などいって連れ出すあたり、まことにご苦労さまだ。案外、彼女も、ひねくれながらもそうした兼家に甘ったれているのかもしれない。

が、甘ったれるにしては彼女の嫉妬はいささか陰性すぎる。先に書いた北条政子――逆上のあまり二号のかくれがを打ちこわしてしまった彼女の嫉妬は、いかにもいなか者らしく荒っぽいが、陽性で、多少ユーモラスでさえある。が、「蜻蛉日記」の作者の場合は、陰湿ないやがらせの色が濃い。