小田原攻め開始直後の十八年四月の段階で、家康は北条領の伊豆を与えられていた。この段階はまだ加増のレベルで、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国は徳川領のままだった。
ところが、小田原城攻囲中の五月二十七日に、秀吉は家康に関東転封を内示したという。この件が公表されたのは小田原開城後のことだが、関東転封の風評は攻城中の秀吉軍の陣中でもすでに流れていた。
秀吉の情報リークで外堀を埋められる
小田原城が孤立を深めて開城もそう遠くはないという見通しのもと、もはや北条氏の領国の行方に関心が集まっていた様子が窺える。六月六日と七日には、家康・信雄が派遣した使者が小田原城内に入って、氏直との直接交渉を開始する。開城に向けての交渉であった。
関東転封の風評だが、家康に国替えを内示した秀吉の本陣が発信源である。水面下で家康に国替えを打診するとともに、国替えの情報をリークすることで外堀を埋めようとしていたことがわかる。家康に関東転封を承知させるための高等戦術と言えよう。
合わせて、家康の領国・三河には織田信雄が封じられるとの情報もリークした。信雄にも国替えを承知させようという意図が読み取れる。
六月二十八日には、関東転封が予定されていた家康が江戸城を居城とすることも決まる。これもまた、秀吉の指示によるものだった。
七月五日に氏直が城を出たことで小田原開城となるが、秀吉が小田原城に入ったのは同十三日のことである。
この日、家康の関東転封が公表された。
旧領を手放し、240万石の大大名になる
関東転封といっても、家康は関東全土を支配下に置いたのではない。北条氏は関東の雄ではあったが、関東全土を領国化してはおらず、常陸には佐竹氏、下野には結城氏、宇都宮氏、安房には里見氏などの有力大名が割拠していた。
関八州のうち相模・武蔵・上総は全域を支配したが、上野・下総国は大半、下野国は一部のみであった。常陸国は佐竹氏、安房国も里見氏の領国だった。関東以外では北条家旧領の伊豆国も領国とした。合わせて、約二百四十万石の大封となる。
だが、家康や家臣団にとっては、まさしく青天の霹靂に他ならなかった。
百万石ほどの身上の家康にとってみれば、数字上はゆうに倍増であった。北条氏の旧領など約二百四十万石に加え、別に近江などで与えられた所領を含めると二百五十万石を超えた。だが、艱難辛苦の末、領国とした五カ国を取り上げられた上での加増だった。
かつて秀吉と激しく戦い、なかなか臣従しようとしなかった。天正十四年(一五八六)十月に臣従してから、まだ四年も経過していなかった。秀吉からすると、さんざん手古摺った記憶はまだ生々しく、家康に対する警戒心は強かったとみるべきだろう。