旧敵地に送り込み、家康の力を削ぐ
よって、この国替えには家康の力を削ぐ意図があったという説には説得力がある。秀吉の本拠である上方から遠ざけたい意図も指摘できよう。
江戸幕府が編纂した『徳川実紀』にも関東転封についての次のエビソードが紹介されている。
関東は久しく北条氏に帰服していた土地であり、領主が家康に代われば、領民が反発して一揆が必ず起きる。土地不案内で一揆が起きれば、必ず負けてしまう。それに乗じ、敗北の責任を家康に取らせようという秀吉の魂胆は明らかとして、関東転封の風説を聞くと、家臣たちは大いに驚き、騒いだ。
だが、家康は泰然自若としていた。たとえ五カ国を失おうと、百万石の所領さえあれば、上方に向かって天下を切り従えることはたやすいというのであった。
家康の度量の大きさを後世に伝えるエピソードだが、実際のところは家康も家臣団も大いに動揺したはずだ。いわば昨日までの敵地に乗り込む形であり、当然ながら前途多難が予想された。
家臣たちが危惧したように、家康の支配に反発して一揆が起き、秀吉から鎮圧できなかった責任を問われて改易となる可能性も決してゼロではなかった。実際、転封された大名が領内での一揆を抑え込めず、秀吉により自害に追い込まれる事例もすでにみられた。
だが、家康はリーダーシップを発揮して家臣たちの不満を抑え込み、国替えの命を甘受する。新領地の関東で実力を蓄えるのである。
なぜ家康は関東転封を受け入れたのか
ちなみに、不戦のまま北条氏を臣従させられず、開戦の事態に至ったことへの責任を問われた結果、関東への転封を通告されたという説もある。
秀吉は家康が臣従した際に、関東や東北の諸大名を豊臣政権に服属させる任務を与えた。要するに関東・東北の平定だが、家康とは姻戚関係にあった関東の雄・北条氏を服属させることが、秀吉にとっては最大の関心事だった。
ところが、家康は秀吉の期待に応えられず、開戦の事態となる。戦わずして北条氏を服属させることに失敗した。
秀吉からその責任を問われた家康は、戦争で荒廃した北条氏旧領をしっかり統治するよう命じられた。領主として戦後処理にみずから当たることで、責任を取らせようとした。そのための国替えであった(柴裕之『徳川家康』平凡社)。
家康の関東転封に伴い、五カ国に拡がっていた家臣団も関東に移ることが求められた。家臣たちの間では先祖伝来の土地から引き離されることへの反発も大きかったが、家康は秀吉の命を楯に関東への移住を厳命する。
家臣の力を弱め、領国経営の基盤を整える
じつは家康にとって、関東転封とは悪い話ばかりではなかった。
国替えに乗じて先祖伝来の土地と引き離すことで、独立性の強い家臣の力が削げるメリットがあったからだ。戦国時代とは下剋上の世であり、どの大名も家臣の統制には苦労していた。
家康とて例外ではない。その点で言えば、関東転封には災い転じて福となした側面もあったことは見逃せない。