日本史上最大の戦い「関ヶ原の戦い」は、半日で決着がついた。歴史家の安藤優一郎さんは「約6時間で徳川家康の勝利で終わったが、実際は開戦直後に石田三成らが総崩れになって終わった。勝敗は戦う前から決まっていた」という。安藤さんの著書『敗軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実』(日経ビジネス人文庫)からお届けする――。
狩野探幽筆「徳川家康像」(写真=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
狩野探幽筆「徳川家康像」(写真=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

精鋭部隊が真田家に苦戦、家康を追い詰めた想定外

西軍(豊臣方)が内部崩壊していくなか、江戸城を出陣した家康は順調に東海道の西上を続けた。慶長五年九月九日に生誕地の三河岡崎城、十日に熱田、十一日には清洲城に入った。

家康の着陣を今か今かと待っていた東軍諸将は隣国の美濃赤坂に滞陣中だったが、この頃になって、家康は想定外の事態が起きていることにようやく気づく。

中山道を西上させた秀忠には真田昌幸を屈服させる任務をいったん与えたものの、戦局の急転を受け、決戦場の美濃に向かうことを優先させるよう命じていた。八月二十九日に使番の大久保忠益を急使に立てたが、ここで計算違いが生じる。

途中、大雨で利根川が大増水して川止めとなったため、信濃小諸に陣を構える秀忠のもとに忠益が到着したのは十日後の九月九日のことであった。

話はさかのぼるが、一週間前の同月二日に小諸に到着した秀忠は、上田城に籠もる昌幸に降伏を勧告する。だが、昌幸は回答を保留し、その間に防備を固めた。昌幸は秀忠を挑発して徳川勢を釘付けにし、決戦場への到着を遅らせようと目論んでいた。

その術中にはまってしまった秀忠は、九月八日に上田城攻撃を仕掛けるが、昌幸の戦術の前に翻弄される。事実上の敗戦であった。

その翌日、秀忠は急ぎ美濃へ向かうようにという家康の命令に接した。上田城攻略を諦めた秀忠は西上の途に就くも、悪天候や大増水による木曽川の川止めもあり、決戦には間に合わなかった。

決戦に臨むか否か、家康は大いに迷う

九月十日頃に秀忠勢三万数千は美濃に入れると家康は想定していたが、その予定が大幅に遅れることを知ったのは、清洲城に入った頃である。中山道を急行する秀忠勢の到着を待ってから決戦に臨むか否か、家康は大いに迷う。