定番のストーリーは後世の創作ばかり

午前八時にはじまった戦いは西軍が善戦。一進一退の攻防が続いて戦況が膠着こうちゃくするなか、西軍を裏切って東軍に寝返ると約束した小早川勢の動向が戦局を左右する展開となる。

ところが、秀秋は西軍の思わぬ善戦に動揺し、寝返りを躊躇しはじめる。

そんな秀秋の態度に業を煮やした家康は、松尾山に布陣する小早川勢に向けて鉄砲を撃ちかけた。家康の督促が決め手となって秀秋は寝返りを決意し、西軍に攻めかかる。乱戦のなか、吉継は自刃。三成、行長、秀家たちは敗走した。正午過ぎ、戦いは西軍の敗北で終わった。

三成たちが敗走した後、それまで戦闘に参加しなかった島津勢が退却する。主将の義弘は西軍に属していたものの、三成への反発から東軍とは戦闘を交えず、傍観する立場をとっていた。だが、西軍の敗北を受け、敵中突破により薩摩への帰国を目指す。島津勢は多大な損害を出しながらも、家康の直属部隊の追撃を振り切って戦場を離脱し、薩摩へと戻った。

こうした戦局の流れが関ヶ原の戦いが語られる際の定番となっているが、最近の研究によれば、事情はまったく異なる。

家康を讃える軍記物を通して、ストーリーが改変つまり創作されていたことが明らかになったのである。

毎年7月に福島県相馬市で開催される「相馬野成」には、 伝統武士の鎧を身にまとって、たくさんの人が参加している
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開戦直後に西軍は総崩れに

この日は、朝から小雨で霧が深く立ち込めていた。ようやく午前八時頃より霧が晴れてきたが、実際に合戦がはじまったのは午前十時頃であった。

両軍の布陣が完了した後もしばらくの間は睨み合いが続いたが、開戦の火蓋を切ったのは中軍にいた、家康の四男で秀忠のすぐ下の弟にあたる松平忠吉である。抜け駆けのような形で、岳父・井伊直政に守られた忠吉は西軍に攻撃を仕掛けた。これを合図に、両軍の戦闘が開始される。

従来の定説では、午前八時の開戦から正午までは西軍は東軍を寄せ付けず、善戦したことになっているが、実際の開戦時刻は午前十時で、その後間もなく西軍は総崩れになったというのが真相であった。

家康に内通することを決めていた秀秋が開戦と同時に、山中村に布陣していた吉継に攻めかかったからだ。さらに、吉継の指揮下にあった脇坂安治や小川たちまでも東軍に寝返る。藤堂高虎による内応工作があったという。そのため、千人ほどに過ぎない吉継の軍勢は壊滅し、吉継は自刃して果てた。

恐れていた秀秋の裏切りは、西軍をパニックに陥れる。三成、行長、秀家の軍勢は東軍に属する正則たちと激闘していたが、秀秋の裏切りにより動揺し、壊走する。三成、行長、秀家は戦場を離脱した。

ここに、関ヶ原の戦いは呆気なく終わった。