かつて日本には「遊廓」という場所があった。そこでは「遊女」という女性たちが客を取り、金銭を稼いだ。法政大学名誉教授の田中優子さんは「遊女たちは、日本文化の核心である『色好み』の体現者として、豪商や富裕な商人、大名、高位の武士たちと教養の共有を果たしていた」という――。
※本稿は、田中優子『遊廓と日本人』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。
京都の文化人で豪商の正妻になった吉野太夫
いったい遊廓に暮らす遊女とは、どんな人たちだったのでしょうか?
江戸時代の遊廓は平安時代以来の日本文化のひとつの表現でした。それは遊女のありかたにもっとも現れていました。一例を挙げます。
江戸時代の京都の島原遊廓に、吉野太夫という人がいました(図表1)。太夫(のちに「花魁」「呼び出し」とも言う)とは、遊廓で最高位の遊女のことです。吉野太夫はある豪商から結婚を申し込まれました。しかしその豪商の親族に反対されましたので、諦めて郷里に帰ることにしました。そして最後だから、とその親族の女性たちを集めてもてなしたのです。
前掛けをして自ら立ち働き、女性たちが集まると琴を弾き、笙を吹き、和歌を詠み、茶を点て、花を生け、時計の調整をし、碁の相手をし、娘さんたちの髪を結い、面白い話で人を引き込みました。
ちなみに「時計の調整」とは、江戸時代の大名家や大店にだけあった和時計の、歯車の調整のことです。和時計は太陽の動きに時計を合わせるので、常に調整が必要でした。この技術を持つということは、大名家や大店の夫人なみの見識があるということでした。
そのような吉野を見て遊女に偏見を持っていた親族の奥方たちは、吉野の面白さ、やさしさ、品格、教養にすっかり引き込まれ、むしろ結婚を勧めるようになりました。この吉野は実在の人物で、京都の文化人で豪商であった佐野紹益の正妻になった人です。