女性が遊女になるのはどんなときか

これは女性の人生にとっては一時的な拘束ですので、決して奴隷制度ではありません。大いに稼げば早くやめることができますし、誰かが借金を全額払ってくれれば、すぐにでも遊廓を出られます。その後、吉野太夫のように結婚する人もいます。しかし一時的にせよ、自由を拘束されます。

では、そういう遊女たちを抱える遊廓はなぜ存在できたのか? その根本を考えると、女性が単独で働く場所が限られていることに気づきます。

江戸時代の農漁山村では家族全員で働きましたし、商家でも夫婦で働きました。都会でもほとんどの女性が何らかの仕事を持っていました。専業主婦という存在はありませんでした。質素でもこつこつと生活のために働く道は、女性にも開かれていたのです。

それでも遊女になる選択をしなければならない場合があるとしたら、それは一度に大きなお金が必要な時です。そういう時、自分が遊女になることで両親や兄弟が安心して暮らせるとしたら、情と思いやりがあるほど、その道を選ぶ女性はいたでしょう。

たとえ結婚したとしても、経済的貧困で家庭生活が成り立たなくなることもあり、そういう時は既婚者でも遊女になりました。身分に関わりなくそういう事態は起こり得て、江戸時代の初期の遊女には、お家取り潰しなどで職を失った武家の娘が多かったと言われます。

今は家を購入したり家族が病気になるなど、手元にあるお金で足りない時、正規の会社員であれば女性であっても銀行はお金を貸してくれます。借りたお金は給与から返していけばいいわけです。そこには企業の給与に対する「信用」があります。しかし江戸時代では、女性が大きなお金を借りる時、もっとも信用があるのが遊廓での働きだったのかも知れません。そこでは毎日、大きなお金が動くからです。

貧困に立ち向かう時、女性はどう生きたらよいのか? どのような道があるのか? 江戸時代だけでなく、その多くが非正規雇用者である現代日本の女性たちも依然として同じ問題を抱えているのは、驚くべきことです。

井原西鶴は女性をどう見ていたか

ところで『世間胸算用』で井原西鶴は、遊女ではないふつうの女性(地女)を辛辣に書いています。気持ちが鈍感で、物言いがくどくて、いやしい所があって、文章がおかしく、酒の飲み方が下手で、唄も唄えなくて、着物の着方が野暮で、立ち居振る舞いが不安定で、歩けばふらふらして、一緒に寝ると味噌や塩の話をして、ケチで鼻紙を一枚ずつ使うし、伽羅は飲み薬だと思いこんでいる、と。つまりこれをひっくりかえしたのが遊女でした。

香水のなかった当時、髪や着物に伽羅を焚きしめた遊女はとても良い香りがして、それだけで天女のような存在だったのですが、それだけでなく、人の気持ちに敏感で、物欲がなく、余計なことを言わずにさっぱりとした物言いをし、酒を適度に飲み、唄がうまく、着物のセンスが抜群で、素晴らしい手紙を書き、腰がすわって背筋の伸びた美しい歩き方をしたのです。実際に遊女は客の前でものを食べることと、金銭に触れること、また金銭の話をすることなどを禁じられていました。