家康の家臣といえば、忠誠心が強かったことで知られる三河譜代の家臣がイメージされるが、家康に絶対の忠誠を誓ったとは限らない。先の秀吉との戦いでは、三河譜代の重臣石川数正が切り崩しに遭って寝返り、家臣団に動揺が走る。
その上、徳川家の場合は版図が急拡大し、そのぶん家臣も大幅に増えたため、家臣団の統制に苦しんでいたことは想像するにたやすい。三河譜代の家臣に加え、今川氏旧臣、武田氏旧臣、今回の関東転封により北条氏旧臣も家臣団に加えられた。まとまりのなさは否めなかった。
よって、関東転封は家康にとり、徳川家をリセットできる貴重な機会となる。家臣たちを先祖伝来の土地と引き離すことで独立性を奪い、統制を強化できた。あわせて、領国経営を強化するため配置できた。
秀吉の命を楯に、リーダーシップを発揮できる環境を整えることに成功するのである。
転封命令を拒否した織田信雄は改易になる
家康が関東転封の命を受諾したことで、その旧領五カ国を誰に与えるかが次の問題となる。
秀吉としては、尾張・伊勢を領国とした清洲城主の織田信雄を封じる予定だった。単なる加増ではなく、信雄の所領を取り上げた上での転封である。
先に述べたとおり、秀吉により国替えの情報はすでにリークされていた。家康の場合と同じく、信雄に国替えを承知させるための手段に他ならない。合わせて、信雄に国替えを内示し、受諾させようとした。
ところが、信雄は父祖よりの所領である尾張を離れるのを嫌がり、転封命令を拒否してしまう。事前の打診はあったものの、家康とは違って家臣の反発を抑え込めなかったのだろう。
もし秀吉の命令を拒否していたら…
ここが運命の分かれ道だった。
秀吉の怒りを買った信雄は所領を取り上げられ、下野の烏山に流される。その結果、国替えを拒否して改易された最初で最後の大名となってしまう。
信雄は出家して常真と号した。後に家康の取り成しにより、秀吉の御伽衆に加えられた。大和で一万石余を与えられ、かろうじて大名に復帰する。
秀吉にとっては主君筋にあたる信雄の改易は、大きな衝撃を与える。当時、来日して布教活動にあたっていたイエズス会の司祭ルイス・フロイスも著書『日本史』で、日本中に言いようもない恐怖と驚愕を与えたという感想を書き残している。
この処置に最も衝撃を受けたのは転封の対象たる諸大名だった。明日は我が身と思っただろう。秀吉としては、自分の命に背けばどうなるかを知らしめることができたのであり、その効果はじつに大きかった。一罰百戒のようなものだった。
信雄に代って、家康の旧領に封ぜられたのは秀吉子飼いの大名たちであった。山中城の攻防戦で勇戦した武将たちが多かった。
駿河は中村一氏、遠江は堀尾吉晴と山内一豊、三河は池田輝政と田中吉政、甲斐は加藤光泰、信濃は仙石秀久たちが入った。関東に封ぜられた家康の監視役も兼ねたはずである。