徳川時代の江戸は人口100万人の「世界一の大都市」になった。歴史家の安藤優一郎さんは「その礎を築いたのが徳川家康だ。豊臣方が江戸城を攻めてくる事態を想定し、最強の城郭と、最大の城下町をつくる必要があった」。安藤さんの著書『徳川家康「関東国替え」の真実』(有隣堂)からお届けする――。
1840年代頃の江戸図(写真=University of Texas Libraries/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
1840年代頃の江戸図(写真=University of Texas Libraries/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

江戸に日本最大の城郭と城下町ができたワケ

家康は、将軍のお膝元となった江戸城と城下の整備にすぐさま着手する。

江戸城を居城と定めたことを受けて、関東の太守にふさわしい城郭と城下町の拡張に取り組んだものの、なかなか思うように進まなかった。秀吉により東奔西走させられた結果、江戸を長く留守にせざるを得なかったことは大きかった。

しかし、名実ともに天下人の座に就いた以上、その行動を束縛する存在はなくなる。家康は自分の意のままに、江戸城と城下町の拡張を推し進める。

かつての秀吉のように、諸大名を動員して工事にあたらせたのだ。秀吉の命により伏見城の築城に動員された経験を持つ家康だったが、今度は立場が替わって諸大名を動員できる立場となる。

天下人として、そのお膝元たる江戸城と城下町の拡張工事の手伝いを諸大名に命じたが、これは「天下普請」と呼ばれた。

それまでは徳川氏のみで工事は進められたが、江戸開府後は諸大名も動員することで、秀吉が築いた大坂城をはるかに越える規模の江戸城が誕生する。日本最大の城郭と城下町が築かれていく。

以下、具体的にみてみよう。

神田山を切り崩し、埋め立て地を造成した

幕府が最初に命じたのは、江戸城の拡張工事自体ではなかった。その前提となる市街地の造成だった。拡張工事に伴い、江戸城内に取り込まれる町の移転先に加え、工事の必要な物資を供給する商人・職人の居住地を造成しようとした。

江戸開府の翌月にあたる慶長八(一六〇三)年三月に、家康は神田山を切り崩し、その時に出た土をもって豊島洲崎を埋め立てさせた。これにより、現在の日本橋浜町から新橋辺りまでの市街地が造成される。その際には、水路も開削された。

道三堀の延長にも水路が開削された。これは日本橋川と名付けられ、日本橋もはじめて架橋される。

歌川広重作「東海道五十三次(日本橋)」(写真=Online Collection of Brooklyn Museum/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
歌川広重作「東海道五十三次(日本橋)」(写真=Online Collection of Brooklyn Museum/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

一連の工事に動員されたのは、主に西国(中国・四国)の諸大名であった。幕府は石高千石につき十人ずつの人夫を普請役として差し出すよう命じたが、これは「千石夫」と呼ばれた。

埋め立て工事を担当した大名の領国名が、造成された市街地の町名となった事例もみられた。尾張町、加賀町、出雲町などである。

江戸城の拡張に伴って移転した町としては、道三堀沿いにあった材木町、四日市町などが挙げられる。両町ともに日本橋地域に移転し、本材木町、元四日市町と改称された。

八代洲河岸沿いの町も移転を命じられ、芝口の日比谷町、京橋の新肴しんさかな町・弥左衛門町・畳町となった。現在の皇居前広場の辺りにあった宝田村・千代田村・祝田いわいだ村の農民は日本橋や京橋に移転し、大伝馬町・小伝馬町・南伝馬町が誕生する。