江戸城の大拡張に動員された諸大名

江戸城拡張工事の前提となった市街地の造成を進める一方で、幕府は慶長九年(一六〇四)から十年にかけ、石を運ぶ船を諸大名に造らせている。

伊豆国から切り出す石を海上輸送するための船だった。船の建造代は幕府が支払ったものの、石の切り出し、海上輸送、工事現場までの陸上輸送など諸々の費用は、動員された大名の負担とされた。

幕府は江戸城の拡張工事を再開したのを契機に、関東ではあまりみられなかった石垣造りの城郭を目指した。東国の城は土塁をベースとしており、江戸城にしても石垣がなかったが、幕府は諸大名に命じて伊豆半島などから石材を船で大量に運ばせ、堀沿いに長大な石垣を築かせたのである。なお、同十年四月に家康は嫡男・秀忠に将軍職を譲り、大御所と呼ばれるようになる。

翌十一年三月一日から、いよいよ江戸城の拡張工事が開始される。動員されたのは西国の諸大名で、年が明けると次々と江戸に到着した。秀吉子飼いの大名として知られる熊本城主・加藤清正、広島城主・福島正則、福岡城主・黒田長政たちだ。

諸大名は伊豆の石場に家臣を送って石を切り出させ、江戸まで海上輸送させた。石を運ぶ船は総数三千艘を数えた。一艘につき、百人持ちの石を二個ずつ載せ、月二回、伊豆と江戸の間を往復させた。巨石だけでなく、様々な大きさの石が運ばれたが、なかには購入した石もあった。

日本最大天守が誕生する

石垣築造の縄張り、つまり設計は家康の意向により、伊予今治城主の藤堂高虎が担当した。この時は本丸、二の丸、三の丸の石垣が築かれたが、その長さは計七百間(約千二百七十二メートル)にも及んだ。高さは十二~十三間(約二十一~二十三メートル)だった。天守台の石垣なども築かれた。

皇居東御苑の江戸城天守台(写真=AMANO Jun-ichi/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)
皇居東御苑の江戸城天守台(写真=AMANO Jun-ichi/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

この年の五~六月には石垣の築造が終了した。続けて本丸御殿が造営される。九月には落成し、同二十三日に将軍の秀忠が入っている。

慶長十二年(一六〇七)に、五層の天守が築造された。これは連立式天守に分類されている。

江戸城の天守は明暦三年(一六五七)の明暦の大火で焼失した後は再建されなかったが、家康が築造させた江戸城最初の天守に近いのは、現存の天守では姫路城が挙げられる。

同時期、家康は大坂城(豊臣氏)への備えとして、姫路城の大改築を断行したが、一つの大天守と三つの小天守が渡櫓わたりやぐらで繋がれた連立式天守が築造されている。世界文化遺産にも登録された白漆喰総塗籠しろしっくいそうぬりこめの天守であった。

江戸城の天守も姫路城と同じく、一つの大天守と三つの小天守が渡櫓で繋がれた。大天守、小天守、渡櫓で囲まれた空間は天守曲輪と呼ばれ、天守閣の防禦力を高める効果が期待された。壁面も同じく白漆喰総塗籠だった。

大坂城や姫路城を凌駕する

その規模だが、江戸城の小天守だけで姫路城の大天守と同じくらいの規模と推定されている。天守台も加えると、その高さは約六十九メートルに達し、姫路城天守よりも二十メートル以上高かった。秀吉が造った大坂城の天守も凌駕する日本最大の天守であった。