天守が聳え立つ本丸についても、その南側に枡形の虎口こぐちを五段連ねることで、防禦力だけでなく反撃力も強化された。城郭への出入り口である虎口を枡形の区画とすることで、敵兵が直進できないようにする仕掛けを施すのが、西国の城造りでは定石じょうせきだった。

家康はこれを五段構えにすることで、防禦(反撃)力を高めようと目論む。枡形の虎口を同じく五段連ねた城としては、加藤清正が築城した熊本城が挙げられる。

本丸の北側には、東国で発展した築城技術である「馬出し」が三段構えで施された。馬出しとは虎口の外側に設けられた空間で、その前面に堀が築かれるのが定番である。枡形虎口と同じく防禦(反撃)力の強化を狙った仕掛けだが、三段構えとすることでさらなる強化を目指した(千田嘉博・森岡知範『江戸始図はじめずでわかった「江戸城」の真実』宝島社新書)。

西国や東国で発展した築城技術も加えることで、日本最大の連立式天守がそびえる江戸城本丸の防禦力は日本最強を誇った。

国立歴史民俗博物館所蔵「江戸図屏風」部分(写真=Marku1988/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
国立歴史民俗博物館所蔵「江戸図屏風」部分(写真=Marku1988/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

豊臣方の攻撃を想定した城郭に

家康は将軍宣下せんげを受けて天下人の座に就いたが、その基盤はまだまだ脆弱ぜいじゃくであった。関ヶ原合戦で家康に味方した豊臣恩顧の諸大名にしても、いつ敵方に転じるか分からなかった。

家康の身に何かあれば豊臣氏に走り、石田三成のように家康打倒を目指すかもしれない。大坂落城の時まで、豊臣氏の存在は家康にとり目の上のたんこぶだった。

よって、天下の情勢が急変し、豊臣氏や豊臣恩顧の諸大名が江戸城を攻めてくる事態も想定しなければならなかった。江戸城を日本最強で最大の城郭に造り変えようとした家康の真意は、その点にまさしく求められよう。それに伴い、城下町も日本最大のものとなったのである。

慶長十六年には、西丸の堀沿いに石垣が築造される。その後、家康が大坂城の秀頼を攻めた大坂の陣で一時中断されるまで、江戸城の拡張工事は続いた(『新編千代田区史 通史編』)。

100万都市・江戸のもとになった大名屋敷

天下普請の名のもと、家康は諸大名を江戸城と城下町の拡張工事に動員することで、天下人の御膝元にふさわしい巨大都市を造り上げていった。世界最大級の人口を持つ百万都市江戸が誕生する道筋を引いたが、江戸が巨大化した要因を考える上で、大名屋敷の存在は外せない。

家康が天下人の座に就く前は、旗本・御家人と呼ばれる直属の家臣団の屋敷に加え、徳川四天王など大名クラスの石高を持つ重臣たちの屋敷が置かれた。さらに、関ヶ原合戦後には豊臣政権下で同列だった諸大名が江戸に屋敷を持ちはじめる。

俗にいう大名屋敷であり、江戸藩邸とも呼ばれる。上屋敷、中屋敷、下屋敷という名称はよく知られているだろう。

参勤交代の制度は家康の孫で三代将軍となる徳川家光の代に確立するが、この時から、参勤交代の制度は事実上はじまっていた。

参勤とは、家臣が出仕して主君のもとで役務を勤めることである。全国の諸大名が主君たる徳川将軍家のもとに伺候し、家臣としての勤めを果たすことが江戸参勤で、隔年で江戸と国元の間を往復した。