通説では、徳川家康は大坂冬の陣・夏の陣で豊臣家を滅ぼそうとしたとされる。名城大学非常勤講師の長屋隆幸さんは「それは違う。家康は幾度も和睦を持ち掛け、秀頼を助命することまで考えていた。明らかに豊臣家を滅ぼすつもりはなかった」という――。

※本稿は、渡邊大門・編『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

大坂冬の陣で徳川家康が考えていたこと

慶長19年(1614)11月末、家康は諸大名に大坂城を囲ませると共に、自分は茶臼山に陣を置いた。秀忠も岡山に陣を布いた(図表1)。

家康は、力攻めを行っては被害が大きいと考え、これを諸大名に禁じた。その上で、塹壕ざんごうや土塁を築き防備を固めつつ前進しやすい状況を作ると共に、築山を築きその上に大砲を配備して大坂城内へ打ち込ませる用意を進めた。

しかし力攻めを完全に制止することはできず、12月4日には家康の命令に背いて加賀藩前田家、彦根藩井伊家、越前藩松平家の軍勢が大坂城の出城である真田丸に攻撃を仕掛け、大敗北を喫している。この命令違反による敗北に対し家康は激怒したという。その後、家康はいよいよ力攻めを厳しく禁じ、諸大名に塹壕・土塁の整備を進めさせている。

このような家康の慎重策に対して秀忠は不満を抱いたようで、期日を定めて全軍で大坂城を総攻撃すべきだと主張したが、家康は小敵を侮るべきではなく、かつ戦わずして勝利を収めるのが良将であると諭したという。

9日、家康は諸大名に毎夜ときの声を上げ、鉄砲・大砲を大坂城に撃ちかけて、敵が眠るのを邪魔するよう命じている。12月10日には、大坂城内に向けて降参する者は赦免すると書いた矢文を打ち込み、敵方の動揺を誘っている。16日には、大砲の配備を済まし、大砲の扱いに長けた者を選んで大坂城への砲撃を開始する。