いま目にする城は「太閤秀吉の城」ではない
都市大阪の礎を築いたのは、いうまでもなく豊臣秀吉だ。そして、巨大な大坂城は太閤秀吉の城として知られる。
実際、大坂城のスケールは圧倒的だ。隣接する読売テレビが社屋から見渡した映像を流すのを見ても、立派な天守の周囲は、広大な城域が高い石垣で堅牢に固められ、さらに広い堀で二重に囲まれ、まるで巨人のための戦艦のようだ。
歩いてみても、たとえば南外堀は最大幅が約100メートルもあり、石垣の総延長は約2キロにもおよぶ。しかも、石垣の高さは堀底から30メートル。その上に現存する六番櫓は高さが15.4メートルと大きいのに、このスケールのなかに置かれると、とても小さく見える。
それに、主な門の周囲の石垣には途方もない巨石が使われ、本丸正門の桜門に用いられた城内最大の蛸石は、高さ5.5メートル×幅11.7メートル。36畳分に相当し、推定重量は108トンという。こんな巨石がいくつも集められた城は、世界にも類例がない。
こうしたスケールを前にして、「さすがは秀吉、やることがデカい」と思う人がいまも多いようだ。ところが、いま地上で目にすることができる大坂城は、じつは石垣の石ひとつとっても、秀吉とは縁がないのである。
「信長の安土城を超える」という決意を実現した秀吉
もちろん豊臣秀吉は「大坂城」を築いたし、それはスケールでも豪華さでも過去に例がないほどの城だった。
大坂は都に近いうえに、京都方面から流れる淀川や奈良方面から流れる大和川が合流する河口に位置し、船が重要な交通手段だった時代には、非常に便がいい場所だった。それに大阪湾から瀬戸内海を通じて西日本に移動しやすい海上交通の要衝で、外国との貿易のためにも好適地だった。
その地の利に目をつけたのは織田信長で、そこにあった浄土真宗の総本山、石山本願寺との11年にわたる戦いの末に、大坂を手に入れている。信長は大坂に、天下を治めるための城を築くつもりだったといわれる。
ところが、その2年後に本能寺の変で信長は斃れてしまう。その後は、周知のように秀吉が後継者としての地位を固め、天正11年(1583)から大坂城を築いた。
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが書いた『日本史』には、秀吉が「日本の歴史上未曽有の著名にして傑出した王侯武将と言われている(織田)信長の後継者となるに及び、可能なあらゆる方法によって自らを飾り、引き立たせようと全力を傾けた」という記述がある。
要するに秀吉は大坂城を、信長が自身の権力の象徴として築いた安土城を超える城にする、と強く決意していたということだ。
そして、同じ『日本史』には「(大坂)城の建物なり部屋、大坂の拡大した市自体、また城の周囲に建てられて行った日本の諸侯、武将たちの屋敷等そのいずれにおいても、すでにかつての美しかった安土の市および城をはるかに凌いでいるとの定評がある」という記述もある。秀吉は自身の決意を実現したわけだ。