大坂の陣で無残な廃墟に

秀吉が生涯をかけて少しずつ拡大した大坂城だったが、秀吉の死後、慶長19年(1614)の大坂冬の陣で徳川幕府軍に取り囲まれる。そして、徳川家康が出した和解の条件を豊臣秀頼側がのんだ結果、本丸の周囲を残して堀を埋められてしまい、翌年の大坂夏の陣で落城。本丸も天守も炎上し、無残な廃墟になってしまった。

大坂城が落城した話は、よく知られているのではないだろうか。ただ、その後は秀吉が築いた石垣の上に徳川が建物を再建した、と思っている人は多い。実際、戦後のある時期までは、専門家でもそう思っている人が多かった。

しかし、現実には、いまの大坂城には豊臣時代に築かれたものは、その痕跡すら残っていない。現在、目にすることができる大坂城は、元和6年(1620)年から11年をかけて、西国を中心に64の大名を動員し、あらたに築かれている。

秀吉時代を想起させるものは地中の中に

もちろん、大坂城が徳川の手で大きく改築されたという認識は明治時代からあったが、秀吉が築いた石垣などもそれなりに残っている、というのが一般的な理解だった。

大阪市中央区の大阪城(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)
大阪市中央区の大坂城(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

そうではないとはっきりしたのは昭和34年(1959)、大阪市、大阪市教育委員会、読売新聞大阪本社が合同で「大坂城総合学術調査団」を立ち上げてからだ。

石垣を調査すると、江戸時代に工事を担当した大名のものと考えられる刻印が多数見つかり、石垣も徳川が再築したことが確認された。

さらにはボーリング調査の結果、本丸の地下7.3メートルに石垣が発見された。その石は地上に築かれている石垣のものとくらべて小ぶりで、しかも自然石がほとんど加工せずに積まれていた。

調査団はそれを秀吉が築いた石垣と断定することには慎重だったが、今度は徳川家の京都大工頭だった中井家から、豊臣時代の「大坂城本丸図」が発見された。そして地下に見つかった石垣の位置は、この「本丸図」の「中の段帯曲輪」と一致したのだ。

昭和59年(1984)にも、「大阪城天守閣」の東南の地下1.1メートルから、高さ6メートルの石垣が見つかった。ここは「本丸図」によれば、秀吉や正室の北政所が住む奥御殿が建っていた「詰の丸」で、本丸より一段高くなっていた。だから、現在の地表からそれほど深くないところに石垣があったのだ。

こうした発見が重なって、現在の大坂城は、大坂冬の陣後に埋められた外堀を掘り返したり、内堀を豊臣時代より大きく掘り下げたりし、その土を場所によっては10メートル以上も盛って豊臣の城を埋め、その上に徳川が当時の最新技術で築いたものだとわかった。

しかも、豊臣時代をはるかに上回るスケールが目指され、秀吉が信長超えを意識したように、徳川は豊臣を超えたことを視覚的に演出したのだ。