明治維新直前に暗殺された「もう一人の坂本龍馬」がいたことをご存じだろうか。歴史家の安藤優一郎さんは「上田藩士の兵学者・赤松小三郎は龍馬の4歳年上。龍馬が構想した大政奉還をいち早く訴えていたが、薩摩藩に暗殺され、幕末史から消された」という――。
坂本龍馬の一歩先を行っていた「信州の龍馬」
最後の将軍徳川慶喜が朝廷に大政を奉還したのは土佐藩が大政奉還建白書を差し出したからだが、そこで名前が必ず挙がってくるのが坂本龍馬である。
大政奉還の仕掛け人であった龍馬は幕府消滅後の新政体の構想も温めており、暗殺される直前に作成した「新政府綱領八策」では議会制度の導入を提起している。
だが、龍馬よりも早く、同様の構想をもって幕府や薩摩藩などの間を周旋して回った人物がいた。龍馬よりも四才年上にあたる、上田藩士で兵学者の赤松小三郎である。
その新政体案は、同時代の先覚者の誰よりも先進的で、具体的な内容を伴っていた。それゆえ、近年とみに注目が集まっている。
龍馬と小三郎は共通点が少なくない。二人とも勝海舟の門人であり、薩摩藩とも縁が深かった。京都で非業の死を遂げたことも同じである。龍馬に約二カ月先立つ形で、慶応三年九月三日にこの世を去る。享年三十七であった。
龍馬の一歩先を行っていた知られざる幕末の先覚者赤松小三郎が果たした歴史的役割を、龍馬と比較しながら考えてみたい。
兵学者から憂国の士に変身した赤松小三郎
天保二年、上田藩士の家に生まれた小三郎は十八才の時に江戸へ出て、研鑽を積んでいる。数学が得意だった小三郎は蘭学そして兵学を学び、海舟にも入門した。その伝手で、安政二年からは長崎の海軍操練所で学ぶこともでき、オランダ兵書も翻訳もしている。