一方、土佐藩は大政奉還論をもって臨もうとしていた。慶喜が大政を朝廷に奉還して将軍職を辞することで、幕府をみずから消滅させた後、天皇をトップとする新体制のもと議会制度を導入する国政改革案である。

この大政奉還論をもって藩論をまとめ、四侯会議後の政局に乗り出そうとしたのが、土佐藩重役の後藤象二郎である。その知恵袋として京都に登場するのが龍馬だった。

長州藩との連合により、慶喜から将軍職を剥奪しようとした薩摩藩であったが、土佐藩の大政奉還論に相乗りすることを決める。薩摩藩の目的は慶喜から将軍職を剥奪することであり、慶喜が大政奉還を呑んで将軍職を辞してくれればそれで良かった。

龍馬も参考にしていた?

六月、坂本龍馬・中岡慎太郎の立ち会いのもと、薩摩藩と土佐藩の間でいわゆる薩土盟約七箇条が締結された。慶喜が諸侯の列に降りた後の国政は朝廷が担い、京都に樹立される議事院で制度や法律を制定する。

議事院は上院・下院から構成され、上院の議事官は公卿や諸大名が当てられ、下院の議事官は藩士や庶民から選挙で選ばれるという内容だった。議事院は議会、議事官は議員を指すのは言うまでもない。

この内容は、六月に入ってから長崎より海路上京した龍馬が船中で後藤に示した「船中八策」が反映されているというのが定説だ。

だが、議政局を議事院、上局・下局を上院・下院と読み換えれば、二院制議会の導入や議員選出方法など、小三郎の建白書を参考にして作成されたことは明らかだろう。

小三郎の建白書は四侯の一人である土佐藩の山内容堂には提出されていないが、久光や春嶽を通して知っていたことは充分に考えられる。というよりも、小三郎が建白書を提出した薩摩藩との協議で作成された盟約であるから、文章化の際に参考されたと考えるのが自然だ。諸藩の間でも写しも出回っていたことは既に述べたとおりである。

時系列からすると、「船中八策」よりも前に、小三郎は幕府消滅後の新政体案を開陳していた。龍馬や薩摩・土佐藩の先を行っていたのである。そもそも、「船中八策」は後世に創作されたものと近年では指摘されている。

坂本龍馬(出典=国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
坂本龍馬(出典=国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

薩摩藩に疎まれ、龍馬に先立ち暗殺される

小三郎が建白書で示した新政体案は薩土盟約に取り入れられた可能性が高かったが、土佐藩の大政奉還路線に相乗りした薩摩藩では、八月に入ると強硬路線が台頭する。慶喜の大政奉還を待つことなく、武力をもって慶喜を将軍の座から引きずりおろそうという武力倒幕論が西郷隆盛を中心に唱えられる。京都は開戦前夜の様相を呈した。