淀殿を江戸に、秀頼は大和国に転封

城攻めの準備を進める一方で、家康は豊臣方に和睦するよう働きかけている。まず11月中に家康の命令を受けた本多正純が秀頼家臣織田有楽斎に宛てて和睦を受け入れるよう促した。

その結果、12月3日に有楽斎から秀頼らに和睦を受け入れるよう説得するとの返答を得ている。12月8日、有楽斎・大野治長から書状が届き、牢人に寛大な処置を願うことと、転封になった際の秀頼の領地について内意を尋ねてきた。

そこで、家康は牢人の赦免を約束すると共に、秀頼を大和国へ転封させるつもりだと伝えたという。その後、家康は豊臣方に和睦条件として、淀殿を江戸に人質として差し出すか大坂城の堀埋め立てを要求し、牢人についてはお構いなしとすると伝えた。

15日、有楽斎・大野治長より和睦に関して返事があり、淀殿を江戸に人質として差し出すが、牢人を引き続き召し抱えたいので知行を加増して欲しいと要求してきた。

これに対し、家康は牢人に如何なる忠があり、知行を与えないといけないのかと豊臣方をただしている。

豊臣秀頼
豊臣秀頼(画像=京都市東山区養源院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

しかし、豊臣方がそれについて返答せず、使者を派遣して重ねて要求してきたので、家康は怒って使者を追い返している。なお、豊臣方から四国の内2カ国をくれるのならば大坂を退くとの申し入れがあったが家康はこれを拒否し、安房・上総両国ならば良いと返答したため、不調に終わったとの話も伝わる。

17日、後水尾天皇からの勅使が家康の陣にやってきて、家康が望むのであれば後水尾天皇が和睦の仲介をすると伝えてきたが、家康は天皇の仲介を得て和睦が成立しなかった場合、天皇の命令を軽んじることになるので仲介は不要と答えている。

和睦を成立させた2人の女性

一旦不首尾で終わった和睦交渉であったが、18日から豊臣方は常高院を、家康は側室阿茶局を代表に立て、和睦交渉を再開させる。

常高院は本名を初と言い、淀殿の妹で、若狭小浜藩主京極高次に嫁ぎ、高次死後に出家して常高院を称した。彼女は姉淀殿が秀頼の母、妹江が徳川秀忠の妻であった関係から豊臣・徳川間の仲介に奔走した人物である。

この交渉の結果、20日に和睦が成立する。

従軍していた林羅山が記した『大坂冬陣記』にこの時家康から秀頼へ出された誓詞の案文が記されている。それによれば牢人については罪に問わない、秀頼の身の安全と知行を安堵あんどする、淀殿を人質として差し出す必要はない、大坂城を秀頼が明け渡すならば望み次第の国を与えるとある(笠谷:二〇一六など)。

また、土佐藩山内家に残る覚書では、家康・秀忠に敵対しないこと、大坂城惣堀を埋めること、牢人を召し放つことを秀頼側が約束し、牢人の赦免、所望の国への転封の確約、淀殿か秀頼かが江戸に居住するならば悪いようにはしないことを家康が約束したとされる。

なお、『大坂冬陣記』などによれば大坂城二の丸・三の丸を豊臣方、惣構を徳川方が担当して堀を埋めることも決まる(福田:二〇一四など)。

これらを踏まえると、直ちに履行すべき事項として決まったのは、徳川方による秀頼の地位確認と牢人の赦免、豊臣方による牢人召し放ち、両者による大坂城の堀の埋め立てであったと言える。

その上で、秀頼の転封や秀頼・淀殿の江戸在住について今後内容を詰めてゆくというものだったと推測される。

秀頼の転封ないし秀頼・淀殿の内の一人が在江戸となれば、完全に豊臣家が家康に臣従したことになる。家康は、最終的にこれらの条件を秀頼らに受け入れさせようと考えていたと推測される。