大坂夏の陣のきっかけ

翌慶長20年(1615)正月、家康は諸大名に命じて大坂城惣堀を埋めさせる。また、豊臣方が担当の二の丸・三の丸の堀埋め立てを遅々として行わなかったので、これも徳川方が代わりに行ってしまったとされる(笠谷:二〇一六)。

2月、家康は駿府に、秀忠は江戸に帰着する。ところが3月に板倉勝重が、豊臣方が兵糧や材木などの軍需物資を集積し始めたことや、牢人達の召し放ちを履行せず、むしろ仕官を望む者達が方々より集まっていることを知らせてくる。

このような情報が入る中、3月15日に豊臣方の使者青木一重らが駿府に来訪して家康に拝謁している。青木らは家康に冬の陣で河内の百姓達が逃げてしまい経済的に困窮して家臣に与える扶持方ふちかたに難渋しているので助成して欲しいと願い出た。

家康は直ぐに返事せず、息子義直の祝言があり尾張へ向かうので尾張で返答すると伝えた。なお、同月から家康・秀忠は各城の守衛を定めるなど戦争の準備を進めている。そして、同月末頃に豊臣家に対し軍備を強化していることを咎め、大坂を明け渡して大和・伊勢に移るか、牢人を召し放つかするよう要求している。

4月4日、家康は尾張国名古屋へ向け出発する。途中で豊臣方よりの使者が到着し、大坂を引き払うことを謝絶してくる。また、牢人を召し放たないとのことであった。ここに家康は完全に再戦を決意し、翌6日から7日にかけ諸大名に出陣を命じている。

10日、名古屋につくと豊臣方の使者を引見して牢人を召し放たないことにつき秀頼・淀殿の考えを糺すよう命じた。家康は、12日に義直の祝言を済ますと15日に名古屋を発ち18日に京都に到着している。

秀頼・淀殿の助命を受け入れた家康

一方、豊臣方は幾つかの派閥に分かれ主導権を争うようになった結果、大野治長が暗殺されかかり怪我をする事件がおきている。

家康は、家臣大野治純(治長弟だとされる)を見舞いとして派遣している。

21日、秀忠が軍勢を率いて伏見に到着。諸大名の軍勢も集まってくる。24日、家康は常高院らに書状を預け秀頼に和睦を持ち掛けている。しかし、豊臣方は和睦を受け入れなかった。

家康は、豊臣方を本格的に攻めることを決め、全軍を大和方面を進む軍勢と河内方面を進む軍勢に分けて進軍し、道明寺辺りで合流する作戦を決める。

家康は秀忠と共に河内方面を進む軍勢を指揮することにし、5月5日に大坂へ向けて出陣している。6日、徳川方の軍勢は道明寺の戦い、八尾・若江の戦いで勝利を収めたが、先鋒の津藩藤堂家・彦根藩井伊家の軍勢が大打撃を受けるなど被害も少なくなかった。

翌7日、家康は天王寺口に、秀忠は岡山口に陣取り、大坂城へ向けて進軍した。豊臣方は、死力を尽くしてこれに抗い、一時期は真田信繁・毛利勝永らが家康本陣まで攻め入り、家康の馬印がされるまでの激戦となったが、結局衆寡しゅうかてきせず、豊臣方は敗北、大坂城は落城する。

「大坂夏の陣図屏風」・右隻(通称:黒田屏風、大阪城天守閣所蔵、重要文化財)
「大坂夏の陣図屏風」・右隻(通称:黒田屏風、大阪城天守閣所蔵、重要文化財)(画像=黒田長政/大阪城天守閣所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

豊臣方は、秀忠の娘で秀頼正室千姫を逃がし、彼女を通じて秀頼・淀殿の助命を申し入れた。家康は千姫の願いを受け入れ、秀忠が許可すれば両人を許すと伝えたが、秀忠は断固として受け入れなかった。

8日、秀頼・淀殿は自害して果てる。ここに豊臣家は滅んだ。