今川勢として参加した桶狭間の戦い
家康がまだ松平元康と名乗っていた時代、後に強固な同盟関係を取り結ぶことになる織田信長はまさしく敵だった。家康が信長と交戦状態にあった今川義元に従属していたからだ。
ところが、永禄三年(一五六〇)五月の桶狭間の戦いで信長が義元を討ち果たしたことを契機に、今川氏を見限ることになる。今川氏と断交し、戦国大名として自立する道を選んだ。
そのためには、仇敵たる信長と手を結ぶことさえ辞さなかった。そして、両者の同盟関係は信長の死まで続いた。
姉川の戦いの時のように、信長からの要請に応えて援軍を率いて戦場に駆け付けただけではない。信長との同盟関係を維持するためには正室と嫡男を犠牲にすることも厭わなかった(築山殿事件)。
そんな信長との間柄は律義な家康というイメージづくりにも大きく貢献したが、もちろん事実関係としては間違っていない。
だが、当時の状況を丹念に見ていくと、桶狭間の戦い後、岡崎城に戻った家康があたかも掌を返すように、今川家と手切れに及んだというのは事実ではない。
そもそも、家康は桶狭間の戦いの後も信長との戦いを続けていた。要するに、今川方としての立場に変わりはなかった。父義元を討たれた今川氏当主の氏真に対し、弔い合戦を進言したという話も伝えられる。
つまり、家康が今川氏との断交を決意するまでには、一定の時間があった。その事実は、桶狭間の戦いというよりも、その後の家康を取り巻く情勢の変化が決定的な理由だったことを暗に示している。
そうした観点のもと、家康が今川氏と断交するまでの過程に注目してみたい。
信長との合戦は続いていた
桶狭間の戦いにより、今川氏は義元や大勢の家臣を失うという大打撃を被ったが、イコール今川氏が滅んだわけではない。当時、義元は隠居の身であり、既に嫡男の氏真が今川氏当主の座に就いていた。桶狭間で当主が討死したのではなかった。
敗戦により尾張侵攻の拠点を失ったものの、三河のほとんどはいまだ駿河・遠江を領国とする有力戦国大名今川氏の支配下にあった。そんななか、家康が反今川の旗幟を示せばどうなるのか。要するに周囲は敵ばかりであり、袋叩きに遭うのは避けられない。