石田三成がまとめた西軍8万対徳川家康率いる東軍7万。まさに戦国時代の総決算となった関ヶ原の戦い。歴史学者の呉座勇一さんは「この合戦では家康の権謀術数がいかんなく発揮され、計算通りに戦局が推移したと語られてきた。たしかに、開戦前の調略において、家康は既に多くの味方を引き入れていたようだ」という――。

※本稿は、呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

関ヶ原の戦場史跡
写真=iStock.com/gyro
岐阜県の関ヶ原古戦場(※写真はイメージです)

関ヶ原合戦は家康の見事な政治的勝利と考えられていた

関ヶ原の戦いは、日本史上最も有名な戦いの一つであろう。徳川家康による覇権を確立させた天下分け目の戦いだからである。この戦いの勝者である家康の采配に対しては、江戸時代は言うに及ばず、近代においても惜しみない賛辞が寄せられてきた。

たとえば徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代中巻』(1923年)で次のように語っている。「関原役に至りては、家康の辣腕らつわんのもっとも辣なるものであった。その始中終しちゅうじゅうは、既刊の関原役の一冊〔上巻〕において叙述している。平心にこれを一読したる諸君は、いかに家康が腹黒き大策士であり、しかしてまた用心深き政治家であり、しかしてさらに堅実無比の大将であるかを知るにおいて、余りあるであろう」と。

関ヶ原合戦においては徳川家康の権謀術数がいかんなく発揮され、家康の計算通りに戦局が推移したかのように語られてきた。そうしたイメージを決定づけたのは、司馬遼太郎の名作歴史小説『関ケ原』であろう。

近年の研究では「家康神話」が覆りつつある

だが近年、白峰旬氏らが新説を提唱、「家康神話」を否定し、関ヶ原合戦像を大きく塗り替えた。そのインパクトは絶大であり、最近では、新説を批判し通説を再評価する見解も提出され、論争が続いている。ここでは通説を再確認しつつ、研究史を振り返り、関ヶ原合戦研究の最前線を紹介する。

まずは、通説が語る関ヶ原合戦の経緯を確認しておこう。慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が没した。後継者の豊臣秀頼はまだ幼少だったので、秀吉の遺命により、五大老・五奉行による集団指導体制によって豊臣政権は運営されることになった。けれども、五大老筆頭の徳川家康は秀吉の死を好機と見て、諸大名を取り込み、豊臣政権の簒奪さんだつを企む。このため、家康の野心を警戒した大老の毛利輝元や奉行の石田三成らも派閥を形成して、家康に対抗した。

ところが翌4年閏3月3日、大坂城で秀頼を守っていた大老の前田利家が病没すると、家康派と反家康派の力の均衡が崩れる。家康の実力が他を圧し、その専制を抑止することが困難になったのである。