大坂冬の陣が勃発した1614年、徳川家康は将軍職を息子の秀忠に譲り73歳になっていた。国際日本文化研究センターの呉座勇一さんは「発端は豊臣家が京都に建立した方広寺大仏殿の鐘に『国家安康君臣豊楽』と家康の諱を分割した銘文を刻んだこと。淀殿や秀頼は否定したが、徳川側が指摘したとおり、呪詛の意味はあったと考えられている」という――。

※本稿は、呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

方広寺3代目大仏殿(1973年焼失)と梵鐘
方広寺3代目大仏殿(1973年焼失)と梵鐘(写真=明治時代、ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵/Images from LACMA uploaded by Fæ/Wikimedia Commons

「国家安康君臣豊楽」という方広寺大仏殿の鐘銘が問題に

大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件については、近年見直しが進んでいる。一般的なイメージとしては、長大な銘文の中からわざわざ「家」「康」「豊臣」を拾い出してきて、意図的に邪推、曲解したというものだろう。ところが、これらの文字は偶然入ったわけではない。銘文を考えた東福寺僧の清韓せいかんは弁明書で「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也。分けて申す事は昔も今も縁語に引きて申し候事多く御座候」と、「家康」の名を意図的に織り込んだことを告白している。

諮問を受けた五山僧たちも「銘の中に大御所様のいみな(実名)書かるるの儀いかがわしく存じ候……(中略)……五山に於いて、その人の儀を書き申し候に、諱相除け、書き申さず候法度御座候」など、全員が諱を書くこと、あるいは諱を分割することを批判している。

この五山僧たちの批判については、「第一に家康の意を迎え、第二に清韓長老に対する嫉妬からしても、もとより注文通りの批判を与うべきは、言うまでもない」(徳富蘇峰)など、家康に忖度そんたくしたと古くから考えられてきた。

けれども、当時の社会において諱は当人と密接不可分という考え方があった。拙著『応仁の乱』でも紹介したように、現実に相手の諱を利用して呪詛する「名字を籠める」という作法も存在した。目下の者が目上の者を(たとえば「家康様」などと)諱で呼ぶことが禁じられていたのは、このためである。

家康お抱えの儒学者・林羅山の見解はさすがに“こじつけ”

確かに、家康お抱えの儒学者である林羅山の見解は、荒唐無稽でこじつけ以外の何物でもない。羅山は「右僕射うぼくや源朝臣みなもとのあそん(右僕射は右大臣の唐名。前右大臣の徳川家康を指す)」の句は、源朝臣(家康)を射るという呪詛だと主張した。さすがにこれは強引で、徳富蘇峰が「曲学世に阿る」と非難したのも無理はない。だが、逆に言えば、五山僧たちは呪詛・調伏の意味があると決めつけた羅山とは一線を画しており、諱を分割すべきでないという常識的見解を表明したにすぎないのである。

歴史学者の笠谷和比古氏は「慶祝の意に出たものであるならば、あらかじめ家康の諱を織り込むことについて何がしか事前に断っておくか、幕府側に草案の披閲ひえつ(文書を開いて見ること)を受けておくべき筋合いのものである」と指摘している。徳川方が鐘銘の問題を必要以上に騒ぎ立て政治的に利用したことは否定できないが、豊臣方に落ち度があったことは事実だ。徳川方のこじつけ、難癖とは言えない。