五大老の前田利家が死に、家康を止める人はいなくなった
利家が没した日の夜、いわゆる七将襲撃事件が起き、石田三成が失脚する。続いて同年9月、家康暗殺計画が取り沙汰され、家康は五大老の一人である前田利長(利家の嫡男)らに嫌疑をかけた。翌5年5月、利長は母の芳春院を人質として江戸に送り、家康に屈服した。
続いて家康は、五大老の一人である上杉景勝に謀反の嫌疑をかけ、5月末、家康は会津征伐を決定した。6月15日、家康は豊臣秀頼から軍資金を獲得し、会津征伐を豊臣政権の公戦と位置づけることに成功した。同月18日、家康は伏見を発し関東に下った。7月7日、家康は諸将を江戸城で饗応し、同月21日を出陣の期日とした。ところが、家康が上方からいなくなった隙をついて、石田三成・毛利輝元らが挙兵し、大坂城を占拠、豊臣秀頼を確保した。家康は上方での異変を把握していたが、予定通り江戸城を発ち、24日、下野小山(栃木県小山市)に到着した。
翌25日、家康は小山に集めた諸将と善後策を協議し、会津征伐中止と反転西上を決定した。いわゆる「小山評定」である。なお近年、白峰旬氏が小山評定虚構説を唱え、本多隆成・笠谷和比古・藤井讓治の各氏が反論し、改めて実在説を唱えたが、ここでは論争の評価には立ち入らない。
家康が豊臣家臣を味方につけた小山評定には虚構説もある
翌7月26日から東軍諸将が西上した後も家康は小山に逗留し8月5日に江戸に帰還している。そして家康は、江戸に1カ月近く留まる。西軍は豊臣秀頼を擁しており、豊臣恩顧の大名である福島正則らが東軍から離反しない保証はなかったからである。西軍の重要拠点である岐阜城(現在の岐阜市)を正則らが攻略したとの報を受けた家康は9月1日、ようやく重い腰を上げ、東海道を西に進んだ。
家康は9月14日には美濃国の赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町)に到着し東軍諸将と合流、同地の岡山に本陣を置いた。美濃の大垣城の西軍諸将は家康の突然の出現に動揺した。そこで石田三成の家老である島左近が手勢を率いて杭瀬川を越えて、赤坂の東軍を挑発、追撃してきた敵を伏兵で討ち取った(杭瀬川の戦い)。いわば前哨戦であり、この勝利によって西軍は落ち着きを取り戻した。
徳川家康は9月14日の夜、諸将を集めて軍議を開いた。正徳3年(1713)に成立した宮川忍斎の『関原軍記大成』によれば、池田輝政・井伊直政は大垣城攻略を主張したが、福島正則・本多忠勝はこのまま西上し、大坂城にたてこもる西軍総大将の毛利輝元と一戦交えるべきだと説いた。