京都が「碁盤の目」になったのは比較的最近
現代の京都の町の姿が他の大都市の景観と大きく違う原因を探るのであれば、江戸期の京と現代の京都を比較するのではなく、あるいは空襲の有無だけで判断するのでもなく、維新以降の京都の町の成長と変化をたどることが求められている。
例えば、太平洋戦争の京都への影響を考えるならば、確かに空襲被害は比較的軽微であったが、「建物疎開」と呼ばれた大戦末期の防火のための家屋除去により、御池、堀川、五条の通りが片側3車線を持つに至ったことを忘れてはならない。
また、15年戦争と呼ばれる満洲事変(1931年)以降の戦時経済体制への移行は、京都の産業の中心であった絹織物や醸造業に壊滅的な影響を及ぼしたことを見逃すわけには行かない。第二帝政のパリで辣腕をふるったオスマンによる都市改造なしに現在のパリの町並みはあり得ないように、20世紀初頭のいわゆる三大事業での主要道路の整備、更には1931年の第二次の大規模市域拡張に続く外郭道路の建設と区画整理事業こそ、今日の京都の町並みの骨格を形成している。
例えば、北大路、東大路、西大路などはその名称からあたかも平安京以来の道路という印象を与えるが、建設されたのは大正から昭和にかけてである。平安京が碁盤の目のように街区を形成したから、京都の町は碁盤の目のようになっているというのは、半ば誤りなのである。
それにも増して見逃してはならないのは、高度成長期の日本の主要都市で例外なく見られた、都心部の高層化が京都の都心では起こらなかったという事実である。そして、その事実に景観保存政策は全く関与していない。