豊臣秀吉が築いた大坂城は、1615年の大坂夏の陣で徳川家康に攻め落とされ、炎上した。徳川方と豊臣方はどのような戦いを繰り広げたのか。歴史学者の渡邊大門さん編著『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の知略』(朝日新聞出版)より、両軍が激突した5月7日の様子を紹介する――。
1663年の大阪城(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
1663年の大阪城(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

天然の要害に守られた最高の立地条件

天正10年(1582)6月に勃発した本能寺の変後、大坂という経済上・地理上の位置に着目した豊臣秀吉は、大坂本願寺の跡地に築城を決意した。そして、翌天正11年(1583)から約2年の歳月をかけて、中枢部をほぼ完成させたのである。その間、三十数カ国から数万の人夫が動員され、大工事が行われた。

大坂城は上町台地に築かれ、周囲は淀川が流れるなど天然の要害となっていた。それだけではない。地理的には京都、堺にも近く、面前には大阪湾が広がっていた。つまり、交易するには至便の地にあり、立地条件はこの上ないものだった。大坂城には本丸、二の丸、三の丸が築かれ、本丸には五重八階の天守が建てられた。のちに惣構そうがまえが整備され、難攻不落の天下統一の覇者にふさわしい城となった。

大坂城築城の意図や工事の様子については、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』に「(秀吉は)己が地位をさらに高め、名を不滅なものとし、格においてもその他何事につけても信長に勝ろうと諸国を治め、領主としての権勢を振うに意を決し、その傲慢さをいっそう誇示するため、堺から三里の、都への途上にある大坂と称する所に新しい宮殿と城、ならびに都市を建て、建築の規模と壮麗さにおいて信長が安土山に築いたものを大いにしのぐものにしようとした」と記されている。

大坂夏の陣のときには防御機能が失われていた

同書では続けて、秀吉の大坂城築城の意図を「己の名と記憶を残す」ところにあったと指摘する。信長亡き後、秀吉は畏敬されるとともに、一度決めたことは成し遂げる人物であると評されていた。この工事では何万もの人夫が動員されたが、それを拒否することは死を意味したとまで記されている。

さらに同書には、城郭が大小の鉄の扉を備えていること、多くの財宝を蓄え、武器・弾薬や食糧の倉庫を備え付けていることなどを記している。さらに、城には美しい庭園や茶室が設けられ、室内は絵画で彩られていたという。一言で言うならば、贅が尽くされたということになろう。

大坂城は難攻不落の城として知られていたが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣後の和睦により、堀などが埋め立てられ、惣構も破壊された。これにより大坂城の防御機能が失われたままで、大坂夏の陣を迎えたのである。