秀頼と淀殿の助命は叶わず、千姫のみが脱出
城内に残った大野治長は、最後の力を振り絞って、何とか千姫を脱出させようと試みた。徳川方に秀頼と淀殿の助命を請うべく、治長自身の命と引き換えにすることを申し出たという(『駿府記』)。
しかし、千姫が大坂城から脱出することは成功したが、秀頼と淀殿の助命は叶うことがなかった。徳川方に保護された千姫は、のちに本多忠政の子・忠刻の妻となった。なお、秀頼と千姫の間に実子はいなかった。
千姫の救出で尽力したのは、坂崎直盛(宇喜多詮家)である。その際、直盛は千姫をもらい受ける条件になっていたという説がある。しかし、先に触れたとおり、千姫が再婚した相手は、本多忠刻だった。すっかり面目を潰された直盛は遺恨を抱き、元和2年(1616)に千姫を奪還する計画を立てた。ところが、すでに計画は幕府に露見しており、直盛は捕縛されたうえ、自害に追い込まれたと伝わっている。
秀忠は再び反旗を翻した二人を許さなかった
大坂城から退去した千姫は、夫の秀頼と義母の淀殿の助命を嘆願するため、家康と秀忠に書状を送ったといわれている。その内容は毛利秀元の書状に、「大御所様(家康)は、将軍様(秀忠)次第であるとご意見を述べられた。秀忠様のご意見では、一度だけのことではないので(一度目は冬の陣)、早々に(秀頼と淀殿は)腹を切らせたほうがよい、とのことであった」と記されている(『萩藩閥閲録遺漏』)。
家康は現職の将軍・秀忠に判断を委ねたが、豊臣家は大坂冬の陣で和睦を結んだにもかかわらず、再び叛旗を翻した。それゆえで、二度目はない(秀頼も淀殿も許さない)との意見だった。
7日の夕方になると、大坂城の天守が炎上し、ついに落城の瞬間が近づいてきた。岡本半介(井伊家家臣)の書状によると、大坂城に火の手が上がったのは、午後4時頃だったという(「田中文書」)。京都の清涼殿からも、大坂城の火の手が上がる様子が見えたという(『土御門泰重卿記』)。