※本稿は、渡邊大門『戦国大名の家中抗争』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
豊臣秀頼の父親は誰だったのか
秀吉には多くの側室がいたが、中でももっとも知られているのが浅井長政とお市の間に生まれた茶々(のちの淀殿)である。秀吉と茶々が結婚したのは、天正16年(1588)のことである。そして、文禄2年(1593)に2人の間に生まれたのが、次男の秀頼である。
秀吉没後、秀頼は豊臣家を継承し、大坂の陣で徳川家康に敗れて自害した。秀頼に関しては、古くから秀吉の実子ではなく、淀殿と大野治長の間の子であるといわれてきた。現在でも、秀頼が秀吉の実子であるか否かに関しては、論争が続いている。
実子でないことを主張する近年の説は、根本的に秀吉には子種がなかったと考えられること、秀頼が誕生する10カ月前に秀吉と淀殿は同じ場所にいなかったことなどを理由として挙げている。
実際に、フロイス『日本史』にも秀吉に子種がなかったことや、夭折した長男・鶴松が実子でないと明確に書き残されている。こうした点は誠に興味深いところであるが、未だ検討の余地があるといえよう。
一ついえることは、秀頼が実子だったか否かは別として、秀吉の後継者になったことが重要という点である。このことによって、豊臣家は存続するのであり、他人の子であるか否かは関係ない。多くの戦国大名は養子を受け入れていたので、別に珍しいことではなかったのだ。
秀次が重用されたシンプルな理由
秀頼誕生以前、秀吉と本妻であるおねとの間には、ついに子宝に恵まれなかった。そこで秀吉は、織田信長の四男・秀勝を天正7年(1579)に養子に迎えた。ちなみに同名の秀勝は、もう一人存在したが(三好吉房と姉・日秀の子)、ともに若くして亡くなった。
秀吉の後継者問題は、喫緊の課題だったのである。そこで、秀頼が生まれる以前に秀吉の後継者と目され、養子に迎えられたのが、豊臣秀次である。秀次は秀吉の姉・日秀の子で、最初は宮部継潤の養子となり、後に三好康長の養子となっていた(最初は、信吉と名乗る)。
さらに秀次は秀吉の養子となったが、同じ一族という事情もあり、重用されることとなる。秀吉の後継者の最有力であったにもかかわらず、秀次の人生は決して平坦なものではなかったといえる。
一例を挙げると、秀吉が家康と一戦を交えた天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、秀次が指揮を誤って多くの戦死者を出したとされる。先行きを期待されていただけに、手痛い失策であった。
この大失敗によって、秀次は秀吉から厳しい叱責を受けたのである。それでも、秀次が重んじられたのは、彼が秀吉の数少ない縁者だったからであると考えられる。