なぜ徳川家康は正妻の築山殿と嫡男の信康を自害させたのか。歴史学者の渡邊大門さんは「対武田氏への政治路線の相違が原因だ。決して織田信長の命令ではなく、あくまで徳川家渦中の問題だった」という――。(第1回)
※本稿は、渡邊大門『戦国大名の家中抗争』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
徳川家康が歩んだ激動の青年期
徳川家康が岡崎城(愛知県岡崎市)主の松平広忠の子として誕生したのは、天文11年(1542)のことだった。母は、水野忠政の娘の於大の方である。幼名は竹千代で、以後は何度か改名するが、煩雑さを避けるため「家康」で統一する。
当時、広忠は、駿河の今川義元に従い、尾張の織田信秀(信長の父)と対峙していた。しかし、水野信元(於大の方の兄)が織田方に寝返ったので、広忠は泣く泣く於大の方と離縁した。
6歳になった家康は、義元のいる駿府に人質として向かおうとしたが、その途中で織田方に捕らえられた。家康が今川氏と織田氏の捕虜交換により、改めて駿府に向かったのは、天文18年(1549)のことである。
家康は今川氏の家臣の関口氏純の娘(築山殿)を娶り、名も義元の「元」の字を与えられて、元康と改名した。永禄3年(1560)に桶狭間の戦いが勃発し、信長に急襲された義元が討たれた。
義元の横死を契機として、家康は三河において自立を画策したのである。翌年、信長と和睦を結ぶと、永禄6年(1563)に名を家康に改めた。
以降の家康は、信長とともに各地を転戦した。元亀元年(1570)、家康は信長とともに浅井・朝倉連合軍を近江で撃破した(姉川の戦い)。その後、強敵となったのが甲斐の武田信玄である。
元亀3年(1572)、家康は三方ヶ原の戦いで信玄に大敗を喫した。翌年、信玄が病没すると、跡を継いだ勝頼も家康に果敢にも挑んできたが、天正3年(1575)の長篠の戦いで、家康と信長の連合軍は勝頼を打ち破ったのである。