※本稿は、本郷和人『喧嘩の日本史』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
なぜ戦国大名たちは領地拡大を始めたのか
戦国時代、特に武田信玄らが登場してきた頃になると、次第に「領地を拡大する」ということを真面目に考える戦国大名たちが出てきます。
それ以前は基本的に自分の本拠地である領地だけを守ることを大名たちは重視していました。武田で言えば、甲斐国を守る。今川で言えば、駿河国を守る。本書でもこれまで述べてきたように、土地は武士にとってそこから財を得るための最も重要なものです。
長年にわたって統治してきた本拠地を守ることを重視するのは当然のことと言えるでしょう。だからこそ、武田信玄の本拠地はずっと甲斐国ですし、今川義元にとっては駿河国でした。彼らは決して、自らの居城を動かしたりはしていません。それは自分の領地を守ることを一番に考えていたからです。
しかし、応仁の乱を経て、戦国大名たちは拡大路線を取るようになります。自分の本拠地が敵国と隣接していると、国防上のリスクもあるため、その間に緩衝地帯を持ちたいと考えた場合、隣国を自分の領地にしてしまえばいい、というわけです。
当然、土地を得られればその土地が生み出す生産物によってさらに国も富むことになりますから、「領土を広げるのはおいしい」ということを戦国大名たちもわかってきたのです。
今川義元は駿府から離れなかった
そうなると当然ながら侵攻した先の土地では、たとえば土地の人間を皆殺しにして略奪するようなことはできなくなるわけです。拡大した土地を自分の領地に組み込み、きちんと運営して統治しなければならなくなります。
今川義元は、父・氏親の代ですでに駿河国の隣国である遠江国まで、ある程度、制圧を完了していました。さらに義元が家督を継ぐと、その支配を三河国にまで広げ、駿河・遠江・三河の三国を今川領としました。しかし、今川義元にとって最も大切なのはもともとの本拠地である駿河ですので、居城はあくまでも駿府で、そこからは動かしませんでした。
駿河・遠江・三河の三国を均等に統治するならば、駿府は東側に寄りすぎています。それにもかかわらず、本拠地を動かさなかったとすると、やはり今川義元にとって駿河国が重要だったということがよくわかります。