石田三成とはどんな武将だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「実務に長け、胆力も備えた優秀な人物だった。だが、主君・秀吉の遺命に忠実であろうとし続けたため他の武将と対立し、豊臣政権崩壊のきっかけを作ってしまった」という――。
絹本著色 石田三成像(模本)
絹本著色 石田三成像(模本)(写真=宇治主水/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

豊臣政権下で分裂が始まったワケ

石田三成は慶長4年(1599)閏3月4日、豊臣秀吉恩顧の有力な武将、加藤清正、浅野幸長、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興の7人に襲撃された。その日は、独断専行が目立つようになった徳川家康との融和に努めていた前田利家が死去した翌日だった。しかし、家康が反発を買っているのかと思えば、豊臣系の武将たちが襲ったのは家康ではなく三成だった。

この事件は結局、家康のとりなしで和睦に至り、三成が政務から退いて居城の佐和山(滋賀県彦根市)に隠居することで決着をみた。

NHK大河ドラマ「どうする家康」の第40回「天下人家康」(10月22日放送)では、こうして隠居する三成が家康にあいさつしての別れ際、「私はまちがったことはしておりませぬ。殿下(秀吉)のご遺命にだれよりも忠実であったと自負しております」と、みずからの正統性を主張した。この言葉は、襲撃事件が引き起こされた原因、ひいては三成という人間を、たしかに象徴しているように思う。

三成の襲撃事件は、豊臣政権内の矛盾が噴出した結果として発生したもので、関ヶ原合戦の萌芽とも呼べる。そして、それは三成が「殿下のご遺命にだれよりも忠実」であろうとしたために誘発され、三成がこうして「忠実」であるほど、豊臣政権内の分裂が深まったといえる。