胆力の備わった能吏という評価
ここでいったん、中野等『石田三成伝』(吉川弘文館)をもとに、三成の経歴をたどっておきたい。桶狭間合戦が起きた永禄3年(1560)に近江(滋賀県)の坂田郡石田村(長浜市)に生まれたとされ、20代前半にはすでに、秀吉の家中でよく知られる存在になっていた。越後(新潟県)の上杉氏との交渉をゆだねられ、天正13年(1585)に秀吉が関白になると、20代半ばにして従五位下治部少輔に叙任した。
翌年、堺奉行に任ぜられたが、これは九州遠征の際、兵站物資を補給するために堺の経済力を利用するための措置で、中野氏は「秀吉が三成に高い期待を寄せた結果」とみる。九州では、秀吉の代理として島津領国に入ってさまざまな交渉を行った。小田原征伐後は奥州で、地域を統治するための実務を重ねたが、こうして敵地に乗り込んで仕事をこなすことができたのは、「それなりの胆力を備えた剛直な人物」だったからだと中野氏はみる。
唐入りに関しても、天正19年(1592)6月、秀吉の渡海が延期になると、代わりに軍令を執行するために朝鮮に渡り、戦闘も経験した。また、北関東の佐竹領や南九州の島津領の検地を主導し、秀次事件ののちには京都所司代を務めた。
その一方、みずからの領地や管轄地の村々には村掟の条々を発したが、中野氏は「当時の大名のなかで、自己の所領内にこれほどまでにきめ細かく綿密な規定を発した例は他になく」と記す。胆力の備わった能吏であるうえ、領主としての手腕もあったようだ。
このように秀吉の命に忠実に実務をこなしながら、三成は自信を深めていったのだろう。三成ら四奉行は「秀吉がもたらした天下の安寧を秀頼に引き継ぐことが出来るのは彼らのみであるという強固な自負心を持っていた。四奉行は相互に連携性を強めるなかで、諸他の勢力には排他的に臨むことで、政権内における立場をより強固に安定化させることを目指した」と中野氏は記す。
だが、その「自負心」と「排他性」こそが、先述した軋轢につながっていく。
挙兵計画は順調だったはずだが
自信家であればこそ、冒頭に記した隠居は三成にとって挫折だった。中野氏は「天下の政治から排除されるという事態は、譬えようもなく無念なことであり、三成にとってはこれ以上ない屈辱であっただろう」と記す(『石田三成伝』)。
しかも、自分が政治に関わることができないあいだに、家康は自身にどんどん権力を集中させている。上杉討伐に至ってついに放置できなくなり、慶長5年(1600)7月10日ごろに会津へ向かう大谷吉継を佐和山城に呼び寄せ、家康を倒すために挙兵する計画を打ち明けた。
その後は、安国寺恵瓊の力を借りて三奉行を抱き込み、茶々(および幼い秀頼)も同調させ、家康の非道を13カ条にわたって書き連ねた「内府ちがひの条々」を、三奉行連盟の添え状をつけて全国の大名に送るまでに至った。すなわち、三成らは豊臣公儀の正規軍として承認され、家康らは正規軍が討伐すべき反乱軍とされてしまったのである。
これは普通に考えれば、家康にはきわめて不利な状況である。しかも、家康にとってはその後も誤算続きだった。