無理強いしても人は従わない
三成の挙兵を知った家康は小山評定を開いて、自分につき従っている諸将に、このまま上杉討伐に向かうか、三成を討つかを質し、三成を討伐する方針を決めた。
しかし、その時点では伝わっていなかった「内府ちがひの条々」の存在が知らされる。家康が従えているのは主として秀吉恩顧の大名たちであり、彼らが「反乱軍」呼ばわりされてまで家康に従うかどうか、読めなくなってしまったのだ。
だから、家康は1カ月近くも江戸城にこもって動かなくなってしまう。すでに尾張(愛知県西部)の清須城に集結していた諸将はしびれを切らすなか、家康が使者を送って促すと、われ先にとばかりに進軍し、たちまち長良川を渡って、織田秀信が守る岐阜城を落としてしまった。
三成が8月6日付で上田城(長野県上田市)の真田昌幸に宛てた書状には、家康に付き従っている武将たちも、秀吉の恩を忘れ、秀頼に粗略な振る舞いをすることなどできないはずだ、大坂に残して人質になっている彼らの妻子を無視できないはずだ、という記述がある。
しかし、ただ「忠実であれ」と号令し、妻子の人質という強引な手段に訴えても人は従わない。三成はそのことに最後まで気づけなかったのだろう。
人の心の機微が読めなかった
家康は多くのジレンマを抱えていた。下手に出陣しても、すでに自分たちは反乱軍なのだから、豊臣系の武将たちの裏切りに遭うかもしれない。だが、様子を見ているあいだに、豊臣系の武将が前進して戦いを決してしまえば、今後の政局に家康が出る幕はなくなってしまう。あるいは、西軍の総帥に擬せられた毛利輝元が秀頼を連れて戦場に現れれば、味方はたちまち西軍になびいてしまう。
だから、決戦を急ぐ必要があるが、徳川の精鋭部隊を率いて中山道を進軍している嫡男の秀忠は、上田城の真田氏の抵抗を受けて前進できておらず、決戦に間に合わないかもしれない。
そこで家康は、馬印や旗、銃隊などを隠して、岡山(岐阜県関ケ原町)の陣所にひそかにたどり着いた。まずは三成側が秀頼を戦場に担ぎ出す余裕をあたえないまま、戦場に到着したのである。だが、それでも豊臣系の武将たちの裏切りに遭っていたら、家康は到底勝てなかっただろう。
結局、家康に付き従った豊臣系の大名たちには、反乱軍扱いをされようとも、三成側を倒すことこそが秀頼のためだという強い意思があった。そして、彼らの「意思」は三成らへの反発から醸成されたのである。だが、三成には、秀吉の命令に「忠実」なあまり、他者に厳しく当たることが招く結果、自負心をもって排他的にふるまうことが招く結果を読めていなかった。
晩年の秀吉は、唐入りはもちろんのこと、秀次事件をはじめ理不尽な判断を重ね、人心を遠ざけた。そんな秀吉にどこまでも忠実であったこと。三成が関ヶ原合戦で負けた原因の根幹はそこにある。