人の殺し方にあらわれる秀吉の狂気
百姓のせがれから関白太政大臣に――。古今東西を見渡しても、豊臣秀吉ほどの出世を遂げた人物は、ほかにほとんど例がない。それだけに自身の生まれへのコンプレックスは大きく、狂気としか呼べない行動につながったように思われる。
その狂気を、NHK大河ドラマ「どうする家康」で秀吉を演じるムロツヨシは、よく描き出している。ただ、秀吉の狂気の最たるものは、人の殺し方に表れていたと思うが、さすがにそれはテレビドラマでは描けない。
最初に秀吉の狂気の実例をひとつ、イエズス会の宣教師ルイス・フルイスの『日本史』から引用したい。病気になった際、秀吉から療養費を受けとって実家に帰り、回復後、僧侶と結婚して一子をもうけた妾の話である。彼女は後日、気軽に秀吉に会いに行ったが、
こうした惨殺が秀吉の身内と関係者に向けられ、史上まれに見るほど残虐に行われたのが、いわゆる秀次事件だった。
甥・秀次の大出世
秀次は秀吉の3つ上の姉、ともの長男として生まれた。つまり秀吉の甥である。早くは浅井長政の家臣だった宮部継潤、続いて畿内で大きな力をもった三好一族の、三好康長の養子になった。
羽柴姓に戻ってのち、秀吉が織田信雄と徳川家康の連合軍と戦った天正12年(1584)の小牧・長久手合戦では、総大将として率いた別動隊が大敗して、池田恒興と元助父子、森長可らの戦死を招き、秀吉から厳しく叱責されている。しかし、同13年(1585)の四国征伐では戦功が評価され、近江(滋賀県)に43万石を得て八幡山城(近江八幡市)を築いた。
天正15年(1587)には従三位権中納言に任ぜられ(翌年には従二位)、「近江中納言」と呼ばれるようになった。同18年(1590)の小田原征伐では、病に臥せる叔父(秀吉の弟)の秀長に代わって副将を務め、緒戦で山中城(静岡県三島市)を半日で落城させ、秀吉に激賞されている。
ただし、秀吉はあらかじめ秀次に、家康の指示のもとで行動するように命じており、甥の武将としての能力を買っていたわけではないようだ。
小田原攻めからそのまま、家康の補佐のもとで奥州仕置(東北地方の平定)に向かい、その留守中に、改易になった織田信雄の旧領のうち尾張(愛知県西部)と伊勢(三重県東部)の北部などが加増され、100万石の大大名になった。